2017/04/12
谷山本城/鹿児島市
谷山本城は南朝勢力の本拠となったお城です。訪問日は2015年12月31日です。

登城口は北側にあります。
入口にはお城についての説明板があります。
新しい住宅街が出来つつありますが、まだまだ空き地の方が多い感じです。
丸々空き地のブロックがあったので、そこに車を停めさせてもらいました。

道はだんだんと細くなっていきますが、右側で派手に土を削る工事がされていました。
表の平らな場所だけでなく、谷戸部分も宅地なりそうな感じです。

緩やかな坂道はいよいよ人がやっと通れる程の細道となります。
かつての登城路そのままであれば、ここに門でも構えそうな感じの地形です。

道はT字の突き当りとなり、右側がこんな感じになっています。
シラス特有の空堀のようです。
こちら側は覗いただけで、歩いていません。

T字の左側に道が続いています。

カーブを曲がるとちょっとした平たん部が現れ、小さな祠がありました。
ここが2段目の曲輪で、祠は伊勢神社です。

さらに登ると、今度はかなり広い平たん地が現れました。
ここが主郭です。

奥には土塁があり、また建物が現れました。
こちらは愛宕神社です。
遠目には展望台のあずま屋のようにも見えます。

その前に城址碑があります

本城という名前に、ここを薩摩の中心にしようとした意気込みを感じます。

そして、どこら辺だったか完璧に忘れちゃいましたが・・・
シラスの立派な空堀もあります

たぶん、上の空堀に踏み込んだ先だったと思います

◆歴史◆
建仁年間(1201~3年の間)、谷山信忠により築かれました。
薩摩平氏の一族で谷山郡司を務めた谷山信忠により築かれました。
以後、島津氏により城を追われるまでの約200年間、谷山氏の本拠地でした。
1342年、征西大将軍・懐良親王が入城しました。
後醍醐天皇の皇子である懐良親王が下向し、谷山城に入りました。
薩摩平氏だけでなく肝付兼重や伊集院忠国ら味方となり、南薩摩は大半が南朝方となりました。
1347年には薩摩守護・島津貞久の居城・東福寺城を攻撃し、陥落寸前にまで追い込みました。
しかし、1348年に谷山隆信が島津軍に敗れると、懐良親王は肥後へ移りました。
島津氏が谷山氏を屈服させるまで約50年の歳月がありますが・・・
元々島津氏は北朝方でしたが、状況に合わせ南朝方に味方することもありました。。
1371年、九州探題として今川了俊が赴任しました。
島津氏久は、今川了俊が味方の少弐冬資を暗殺したため、敵対するようになります。
今川了俊は、島津氏と戦っていた南朝方の伊集院忠国の子・久氏を誘いました。
しかし、伊集院久氏は乗らず、島津氏久の娘を嫡男の嫁に迎えて味方となりました。
薩摩の南朝方が一気に滅亡しなかったのは、こんな動きがあったからだと思います。
1397年、島津元久が谷山城を攻略し、谷山氏が退去しました。
谷山氏と島津氏の戦いの経緯はサッパリわからず・・・
ただ「応永4年」に谷山氏が城を退去したことだけわかりました。
この年、今川了俊が失脚後の後任として、渋川満頼が肥前に赴任しました。
すると、島津家の名代として島津久豊、島津忠朝が出向き関係を改善しました。
九州探題の一番の目的は、南朝方勢力の駆逐です。
この時に、薩摩の谷山氏討伐が話し合われたのかもしれませんね・・・
1417年、伊集院頼久が立て籠もり、島津久豊に攻め落とされる。
1411年に島津元久が没すると、伊集院頼久と島津久豊(奥州家)が家督を巡り争いました。
伊集院頼久は総州家の島津久世を味方に付け、優位に戦いを進めていました。
しかし、1417年に谷山城を攻め落とされると、川辺の平山城へ移り抵抗を続けました。
和睦の席で島津久世が暗殺されたものの、両者は和睦して戦が終わりました。
1527年6月、島津実久が島津忠良から奪いました
島津勝久が島津実久と対立し、味方に引き込もうと島津忠良の子・貴久を養子に迎えました。
しかし、島津実久は島津勝久を誘導し、島津忠良・貴久父子との養子縁組を解消させました。
この時に島津実久は軍勢を動かし、宗家の本拠・清水城と谷山城を攻め落としました。
島津忠良・貴久父子はかなりのピンチでしたが、何とか伊作城・田布施城へ逃れています。
1535年9月、島津実久方が籠城、島津勝久方が攻めた
島津勝久は重臣の川上昌久に諫言され、逆切れして自害に追い込みました。
すると、島津実久はサジを投げ、本格的に島津勝久排除に動きました。
島津勝久は帖佐へ逃れたものの、北原氏と祁答院氏の援軍を得て島津実久軍に勝ちました。
それが谷山城での戦いと思われます。
その後、島津実久軍の反撃に遭い、島津勝久は各地を転々としました。
島津勝久は、一方的に養子縁組を解消した島津忠良・貴久父子を再び味方にすることに成功。
徐々に島津実久に対して優位に立ちますが、家臣が島津貴久擁立に傾き豊後へ去りました。
1539年、島津忠良が攻め落としました。
島津忠良は1537年に島津実久と会談し、領地の交換に応じれば守護と仰ぐと提案しました。
交換するのは川辺・加世田と鹿児島・谷山・吉田・伊集院で、薩摩が綺麗に南北に分かれます。
しかし、島津実久はこの提案を却下し、谷山を実力で奪いました。
島津忠良は渋谷一族を味方にして薩摩中央部を抑え、薩摩の南北を分断しました。
島津実久は谷山城で敗れると加世田へ移り、そこでも敗れると降伏して出水へ移りました。
島津忠良は実質的に薩摩を統一し、嫡男の島津貴久が薩摩の盟主となりました。
廃城の時期はよくわからず・・・
ググっても、某大聖典を見てもいつ廃城になったのか書かれていません。
江戸時代は麓に地頭仮屋が置かれたので、一国一城令まで続いた可能性大です。
所在地:鹿児島市下福元町
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