2017/04/09
指宿城/鹿児島県指宿市
指宿城は別名・松尾城とも呼ばれ、城跡には松尾崎神社があります。訪問日は2015年12月31日です。

城跡への道は、ちょっとわかりづらいです。
地図では道沿いの山に松尾城跡なんて描かれていますが、そちらからは道がありません。
陸側の国道から細い路地に入り、さらにその突き当りから城跡への道が細々とあります。
近くに駐車場が無いので、どこかでうまく見つけて停めるしかありません


上の写真の所から線路へ向かう道です。
すでに何となく堀底進んでる気がしますが、城跡はまだ先です。

この線路の向こうが城跡です。
警報機が無い所なので、右見て左見てを最低3回はやりましょうね!

線路を渡ると、そこにお城の説明板があります。
ここから本格的に城域に入ります。

途中、堀切っぽい所を通ります。
小さな神社を建てるために、わざわざやる事じゃないですよね?
まだGPSロガーを持ち歩いてない頃なので、線路を渡ってからの道筋がウル覚えですが・・・

何となくグルッと回り込んで登った記憶があります。
お参りに来る人があまりないのか、鳥居がちょっと無残な姿のまま放置されています。

南側から上がる階段があり、登り切ると真正面に赤い屋根の神社が現れます。
ここが指宿城の主郭だったとされます。
何となく狭過ぎるので、背後の山にもっと大きな曲輪があるような気がしますが・・・
某大聖典を開いて、社殿の後ろに大きな土塁があると今知りました




上の写真の立ち位置から見て左側の木陰に、城址碑と説明板があります。
当日は空が急に真っ黒になり、写真に写る程の大粒の雨が降り出しました。
あまりに暗かったせいか、かなりブレてしまいました

◆歴史◆
あまり情報の無いお城なので、ググって出て来るのはほぼ説明板の丸々コピペでした。
ちょっと意地になって調べると、それ以外の事が色々出て来たので補足します。
指宿氏のお城でした。
指宿氏は頴娃忠永の次男・忠光を祖とします。
指宿忠光は指宿郡司となり、頴娃氏を支えました。
城を築いたのは4代目の指宿忠村で、平安時代末のことでした。
指宿氏が室町時代に島津氏に滅ぼされました。
8代目の指宿忠合が島津元久に滅ぼされました。
この時に西隣の頴娃氏も一緒に滅ぼされたようです。
いつなのか?ですが、島津元久が家督を継いだのが1387年で
・1393年、総州家島津伊久から川辺郡を譲られる
・1394年、今川了俊に味方した渋谷五氏を討伐【この時、南朝方の薩摩平氏は?】
・1400年、清水城を築き、総州家と義絶【薩摩平氏は総州家とどういう関係だった?】
・1401年、鶴田合戦に敗れ、菱刈へ逃亡【薩摩半島で戦いはあった?】
・1404年、総州家島津伊久と和睦
・1407年、伊集院頼久が総州家の坊津・泊津を攻め取る【地理的にかなり近い】
・1409年、薩摩守護となる
・1411年、渋谷氏との戦で陣没
・・・このどこかですね

一番可能性を感じるのは1407年辺りでしょうか?
指宿は島津家臣の阿多時成、次いで奈良美作守が治めました。
1409年、奈良美作守の苛政により民の乱が起こり、島津久豊に攻められ落城しました。
・・・と某大聖典には書かれていますが、島津久豊はこの頃日向に居たハズです。
うっかり鵜呑みには出来ません

何はともあれ、この時にまた落城したという事ですね。
1420年、伴姓頴娃氏(肝付一族)の城となりました。
肝付兼元の次男・兼政に頴娃・指宿の地が与えられ、頴娃氏を名乗るようになりました。
指宿には頴娃氏の家老が置かれたようで、以後の城主に色んな名前が登場します。
頴娃氏は1588年に6歳の頴娃久音が改易されるまで、頴娃を支配しました。
ただ、気になるのが説明板に書かれていた歴代城主様の名前です。
奈良氏以後の城主に「相州島津、弥寝、薩州島津氏、伊地知、田代の諸氏」が登場します。
「相州島津」は田布施の島津友久、運久の2代しかいません。
島津友久は島津忠国の長庶子で、田布施に入ったのは1458年頃です。
1493年に島津友久が没した後、子の島津運久が1512年に隠居するまで治めていました。
その後の相州家は、伊作家の島津忠良が継いでいます。
「薩州島津」氏は出水の島津実久ですね。
川辺の平山城を拠点にしていたので、かなり近いです。
明応年間(1492~1500年の間)、島津氏の城になりました。
指宿に入ったのは島津忠国の十男・島津頼久です。
すぐ北の給黎(喜入)には、島津忠国の七男で兄の島津忠弘が入っています。
このことから、島津宗家が薩摩半島南部へ侵攻したことがうかがわれます。
島津忠国は1459年に子の島津立久により加世田に追放されていました。
この年代の当主は孫の島津忠昌でしたが、かなり荒れた時期です。
指宿に入った島津頼久は、島津忠昌の叔父にあたります。
島津忠昌は主に叔父の島津久逸と戦っていましたが・・・w
伊作や田布施が近いので、おそらく宗家よりも伊作家に近い立場だったかもしれません。
1498年、頴娃氏と禰寝氏に攻められ落城しました。
この時に、城主で喜入島津氏の2代目でもあった島津頼久が討死しました。
「禰寝」氏が城主となったのはこの時でしょうか?
喜入島津氏は、初代の嫡男で2代目の養子でもあった島津忠誉が継ぎました。
1525年に再び頴娃氏に攻め落とされているので、それまでに奪回したようです。
「薩州島津氏、伊地知」はかなり自信ナシです

薩州島津氏は1470~1539年まで、加世田を中心に南薩摩も支配していました。
なので、指宿を支配していた時期があっても不思議ではありません。
色々ググってその時期を探ると?しか出て来ませんけど

伊地知氏には、薩州家の島津実久に従っていた伊地知重貞が居ました。
なので、島津実久の地頭として指宿に居た可能性があります。
伊地知重貞は、島津貴久が島津宗家の家督を継いだ際に反対し、1527年に挙兵しました。
しかし、島津忠良により鎮圧され、その時に自害に追い込まれています。
1525年、頴娃兼洪が津曲兼任に命じて指宿城を攻め落としました。
指宿城でググっても出ない出来事ってあるんですよね・・・
同じ事が頴娃城にも言えますが

津曲兼任に攻められたのは、喜入島津氏3代目の島津忠誉でした。

享禄年間(1528~31年の間)、島津忠誉が島津忠良に従ったとみられます。
島津勝久は1526年に島津忠良の子・貴久に家督を譲りながら、翌年あっさり取り消しました。
そのため、両家は対立関係となります。
頴娃氏はかつて、島津勝久が家督を継いでいた時期がありました。
兄2人が相次いで若死にしたため、島津勝久は島津宗家に戻りました。
頴娃氏に指宿を奪われた喜入島津氏が島津忠良を頼るのは、かなりあり得ますネ。
1533年、頴娃兼洪が島津忠良に攻められました。
島津勝久が島津実久に追われ没落すると、敵対していた島津忠良に攻められました。
頴娃兼洪は降伏し、島津勝久派の田代民部介を追放しています。
この田代民部介が指宿城の城主だったっぽいですね。
以後も頴娃氏のお城だったと思われます。
指宿城でいくらググっても出てこないのが、喜入氏です。
喜入島津氏は喜入と指宿を領地とし、指宿が何度も争奪戦の的になりました。
その後、5代目の島津忠賢から改姓し、喜入季久と名乗るようになります。
島津貴久お気に入りの武将だったようですが、領地は喜入と鹿籠の2か所だけです。
1539年以降はこの辺りで戦が無い感じなので、そのまま頴娃氏の領地だったようです。
1588年に頴娃久音が6歳で改易され、以後は島津本家の直轄地となりました。
1615年の一国一城令で廃城になったとみられ、地頭仮屋は指宿北郵便局の辺りに置かれました。
所在地:鹿児島県指宿市西方外城市
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