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桜之城/鹿児島県枕崎市

桜之城跡は小学校と公民館になっています。
訪問日は2015年12月31日です。

【写1】桜之城

桜之城跡は、桜山小学校を目印にして訪ねました。
この角を左へ上がって行くのですが・・・この地形、タダ者ではありませんよね?

【写2】桜之城

実は、この小学校は地頭仮屋の跡地に建てられたものだったんです。
この正門は地頭仮屋の門でしょうか?

【写3】桜之城

城跡は小学校の脇にある公民館の辺りとされます。
遺構は無いと言われていますが、この地形は城塁の名残でしょうか。

【写4】桜之城

公民館の一段下にも、曲輪跡のような駐車場があります。
その端っこにはちょっとした土盛りが・・・
きっと土塁の名残なんだと自分に言い聞かせ、次の城跡へと飛んで行きました合格


◆歴史◆

薩州家・島津国久の子・秀久が城主となりました。

具体的な年は不明ですが、史料の初出が島津国久が加世田に居た頃のようです。
加世田が島津国久の支配下に入ったのは、島津忠昌と争い始めた1476年頃と思われます。
島津国久は1498年に没しているので、1476~98年の間に築かれたのは間違いなさそうです。
新たな支配地域に自分の子を配置しているので、この期間の始め頃が妥当かと思われます。
島津秀久は後に吉利(南郷の北西)に移り、吉利姓を名乗るようになりました。

吉利氏は島津薩州家の分家ですが、薩州家と伊作家の争いでは伊作家に味方しました。
吉利秀久の子・忠将が、島津忠良の異父妹を娶ったのが関係するかもしれません。

伊作家・島津忠良の三男・島津尚久が城主となりました。

島津尚久は1531年生まれのため、城主となったのはそれより後ということになります。
吉利秀久は1557年に没したので、島津尚久に城主が代わるまで桜之城主だったと思われます。
この辺りの年代で領地を移りそうなのが、1538~39年頃でしょうか。
島津忠良が島津実久を川辺で破り、薩摩の南半分を手に入れた頃です。
島津尚久は、1533年に島津実久に味方した桑波田氏から奪った南郷城を与えられていました。
南薩摩を手中にした島津忠良が、南郷と枕崎で城主を入れ替えたのではないかと思います。

1578年、喜入季久が城主となりました。

島津尚久の子・忠長が大隅国串良へ移り、喜入季久が鹿籠を領地に加えられました。
喜入季久の頃には「山之城」と呼ばれていたようです。
子の喜入久道は1587年の九州征伐後に鹿児島市永吉へ移され、肝付氏が城主となりました。

1633年、喜入氏が鹿籠の領主に復帰します。

喜入久道には跡継ぎが無かったため、末弟の長阿弥長重が家督を継ぎました。
長阿弥長重は出家していたため、還俗して喜入忠続と名乗りました。
外交交渉に長けていたようで、何度も江戸の将軍に謁見しています。
家老職を退いた1633年に、父・喜入季久が領有していた鹿籠を与えられました。
地頭仮屋は桜山小学校の場所に置かれ、以後代々喜入氏が鹿籠の地頭を務めました。


所在地:鹿児島県枕崎市東鹿麓

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故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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