2017/04/02
別府城/鹿児島県南さつま市
別府城は加世田城とも呼ばれ、南薩摩の主要拠点でした。訪問日は2015年12月31日です。

別府城跡は公園となっています。
ご覧の通りで、遺構は全く期待出来ません。

一番奥には立派な城址碑があります。

城址碑の後ろ側で木が茂っていたので、ちょっとぐらい土塁でも残っていると思いましたが・・・
こちら側は10メートル程の断崖となっています。
市街地に近い場所ですが、地形を利用した要害だったんですね!

公園の一角に、ここにあった小学校の配置図が描かれている石碑がありました。
どうせなら、お城の縄張りの方が良かったのですが・・・w

その裏では一応、お城についても触れられていました

◆歴史◆
平安時代末頃、別府忠明により築かれました。
別府忠明は薩摩平氏で、伊作良道の五男です。
別府氏は代々加世田の領主として南北朝時代は南朝に味方しました。
1420年、島津久豊の領地になりました。
島津久豊が薩摩半島南部に侵攻し、頴娃氏や指宿氏などを滅ぼしました。
別府氏は降伏し、鹿児島へ移されています。
1459年、島津忠国が隠居城としました。
島津久豊の跡を継いだ島津忠国ですが、かなりグダグダな当主でした。
各地で反島津の謀反が起こるとやる気を無くし、弟の島津用久に任せっきりにしていました。
しかし、島津用久が謀反を鎮圧すると復活しようと画策し、これが元で争いが始まります。
兄弟喧嘩は島津用久が出水地方を与えられることでいったん落ち着きますが・・・
一族家臣は心中穏やかでない日々が続きます。
そんな状況のなか、子の島津立久がクーデターを起こして家督と守護職を奪いました。
追放された島津忠国は加世田に送られ、1470年に没するまで蟄居生活を余儀なくされました。
1539年、島津忠良・貴久父子と島津実久が戦いました。
島津忠国と島津用久の家系の争いはその後も続き、この頃は島津勝久と島津実久が争いました。
島津勝久は島津実久の姉か妹を娶っており、島津実久がグダグダな婿を操ろうとしたためです。
島津勝久は1526年にも島津忠良に助けを求め、家督を島津貴久に譲る約束をしていました。
この時は1年足らずで約束を破り、再び守護に復帰しました。
今回は島津実久が実力行使に出て、島津勝久を鹿児島から追放しました。
いよいよ切羽詰まった島津勝久は、再び島津忠良に助けを求めたのでした。
島津忠良・貴久父子は渋谷一族を味方につけ、鹿児島と出水を分断。
そして、薩摩南部に侵攻して、島津実久方の拠点を制圧しました。
この時に加世田でも戦いがあり、島津忠良・貴久が勝利しました。
さらに島津忠良・貴久父子が鹿児島を制圧すると、島津実久は出水へ撤退。
島津忠良・貴久父子が、実質的に薩摩の盟主となりました。
1550年、島津忠良が隠居城としました。
島津貴久が内城を築いて鹿児島へ移ると、島津忠良は隠居して加世田に移りました。
以後は琉球を通じた明との交易を行い、『いろは歌』を作るなど教育にも力を注ぎました。
島津忠良は、1568年12月に77歳で没するまで加世田で暮らしました。
以後は島津家の外城となり、江戸時代には城跡に地頭仮屋が置かれました。
所在地:鹿児島県南さつま市加世田武田
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コメント
こんばんは!
そしてこの別府城、鹿児島交通線サイクリングの探査で迷い込みました!お城として見に行かなきゃと(^^)/
2017/04/03 22:07 by トシraud URL 編集
Re:こんばんは!
お城として見るなら、西と東の断崖でしょうかね。
2017/04/04 20:09 by なぽ URL 編集