2017/03/12
串木野城/鹿児島県いちき串木野市
串木野城はヤブ城らしいです。訪問日は2015年12月30日です。

まずはあちこちで紹介されている説明板を目指します。
写真ではかなり広々とした場所のように写っていますが、道はかなり細いです。
車を停められる場所が無いので、一瞬降りてパッと撮って退散

石垣がとてもいい感じに反っていますが、お城や地頭仮屋の遺構ではありません。
誰が何の目的で築いたかは?ですが、明治時代に組まれたものだそうです。

次に訪ねたのは、城域の東端にあったとされる南方神社です。
上の説明板の所から右へ進むと、道端に階段のある場所に出ます。
ここも車を停める場所が見当たらず、階段の前の小さなスペースに無理矢理停めました。
レンタカーが軽だったので、何とか停められた感じです。

南方神社の社殿です。
土塁などは見当たらず、言われなければここが曲輪だったとはわかりません。
神社と道を挟んだ反対側の山林が串木野城の主要部だったそうですが・・・
グルッと周りを回ってみましたが、道が堀跡のようでどこから入れるのか?でした。
ヤブ上等!だったのですが、山林に入れそうな所は民家だったので諦めました。
◆歴史◆
鎌倉時代に薩摩氏により築かれました。
薩摩氏は薩摩郡司を務めた家柄で、薩摩平氏の一族です。
平安時代には薩摩の大半を支配していたようで、各地に同族が居ました。
鎌倉時代になると、源氏に逆らった勢力が排除されて地頭が配置されました。
平安時代から続く土豪と、新たに赴任した地頭との間に争いが生じるようになりました。
薩摩氏が城を築いたのは、そんな背景があったのでしょうか。
串木野城には薩摩忠直の三男・忠道が置かれ、以後串木野姓を名乗るようになります。
南北朝時代に島津氏の城になりました。
薩摩平氏の多くが南朝に味方し、北朝方の島津氏と争いました。
串木野城が島津貞久に攻め落とされたのは、1342年だったとされています。
すぐ北の隈之城にあった二福城は、この3年前に落城したとされています。
薩摩氏もかなり激しく抵抗したんですね。
1474年、川上忠塞が城主となります。
川上氏は島津氏5代・島津貞久の庶長子・川上頼久を祖とします。
ある意味、島津氏の嫡流ともいうべき家柄ですね。
以後、3代にわたり川上氏が城主を務めます。
3代目城主の川上忠克は島津薩州家の家老を務め、娘は島津実久の後室でした。
主・島津実久が島津伊作家の島津忠良との争いに敗れると、甑島へ流刑となりました。
しかし、3年後に許されて復帰すると、島津忠良の家老となっています。
1555年、山田有徳が城主となりました。
島津貴久の蒲生氏攻めで功を挙げ、串木野の地が与えられました。
川上忠克が健在なので、どこかへ移って串木野が空いたという事でしょうか・・・?
そこいらはサッパリ?です。
川上忠克の子・川上久朗がこの時期に17歳にして家老となり、谷山の地頭になっています。
もしかすると川上忠克は隠居して、一緒に谷山へ移ったのかもしれませんね。
山田有徳は間もなく没し、子の山田有信があとを継ぎました。
山田有信は幼少の頃から島津貴久に仕え、1568年には島津義久の家老になっています。
その後の日向国高城での籠城戦がとても有名な武将です。
わずか300の手勢で大友軍や豊臣軍から小さな城を守り切ったのですから、スゴイ人です!
1570年、島津家久の城になりました。
島津義久の弟の方の島津家久です。
年代は被っていないのですが、甥っ子が後に同じ名前を名乗るのでややこしいですw
ルイス・フロイスが「極めて優秀な武将」と称え、沖田畷で龍造寺隆信を討ち取った人物です。
家老の山田有信が健在でしたが、後の活躍から推測してこの時に日向へ移ったようですね。
1584年、島津家久が日向に移りました。
沖田畷の戦で敵将・龍造寺隆信を討ち取った島津家久は、日向国佐土原へ移りました。
島津家久の後、誰が串木野を任されたのか???ですが・・・
廃城後は、一番上の石垣の上に串木野麓の地頭仮屋が置かれました。
所在地:鹿児島県いちき串木野市上名
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