2017/03/06
鉢形城/埼玉県寄居町
鉢形城は武蔵北部に置かれた超重要拠点でした。訪問日は2017年3月5日です。

最近は仕事が無いクセに土曜も出勤なので、本格的な山城攻略になかなか行けず。気晴らしに近場の100名城スタンプ入手も兼ねて、鉢形城へ行ってきました。ルートは花園IC→国道140号→国道254号→県道30号と、またしてもかなりアバウト・・・それでも何とか1回しか道を間違えずに辿り着きました。誰も信じてはくれませんが、世の中にはこんなA型も居るのですw
写真は鉢形城歴史館で、まずはここのカウンターで100名城スタンプをゲットです!

歴史館の駐車場から既に見えているのが、外曲輪の土塁です。高さはそれ程でもないのですが、結構長いです。

外曲輪を東へ突っ切って道に出たら左へ、そこの交差点に城址碑があります。ここは笹曲輪のド真ん中ですが、ガッツリ道になっています。地図で見たら昔はココに来るのがスゴイ大変そうですが・・・現在はここから城内へ入ります。

道端は芝生の広場となっており、その真ん中に城全体の模型があります。

これは1/250の模型で、立体的でワクワクします



笹曲輪からは巨大な土の壁が見えます。

その足元に「石垣」の標柱が!崩れちゃいそうですが、ちゃんと組まれています。

笹曲輪の脇の道が搦手口となっています。昔こっちに道があったかどうかは?ですが・・・大きな土塁の真ん中を道が突っ切っています。ここに虎口は無かったでしょうね(´・ω・`)

右側の土塁、人が歩いた跡がハッキリ残っています。みんな高い所が好きなんだな・・・なんて、深い考えも無くふらふらっと行きます。

軽い気持ちで登った土塁は、次第に幅が広くなっていき・・・

ここまで来ると、もう「土塁」ではありませんよね?w

しかも、土塁の上に軽~く堀切まであります。

すぐ脇を流れる荒川とは、こんな高低差があります。こっち側からは攻められませんよね?

ということで、ココがここが伝御殿曲輪と呼ばれる主郭です。

本丸なんて城址碑もココにあります。「本丸」って表現は、豊織系のイメージで何となく違和感あるんですよね・・・「主郭」も「一の曲輪」も、きっとみんな意味合いは同じなんでしょうけどw

ちょっとした城跡なら、これで丸々1つ分になりそうな規模です。しかし、鉢形城ではちょっと大きな土塁?でしかありません。鉢形城の図を見ていると、そんな風に感じてしまう位に全体の規模がデカイです。まぁ、図では本曲輪を囲む土塁の北半分がこれですから!

伝御殿曲輪の巨大土塁を下りると、道を挟んだ反対側にこれがあります。搦手口もそうでしたが、本当はこれがずっと繋がっていたんですね・・・

この大きな土塁の脇からは、土塁の迷路のようになっています。ここを下ると城内の真ん中を流れる深澤川に出ます。水を汲みに行ったり、川を伝って侵入しようとする敵を防ぐ場所だったのでしょうか。それにしても規模がデカイです!

本曲輪と二の曲輪の間には、脇を下る道が通っています。昔はこんな所に道は無く、曲輪どうしを隔てる深い堀があったのでしょう。それにしても、よく道を真っすぐ通しませんでしたね!

二の曲輪はかなり広いですが、特に目立った構造物はありません。敢えて言えば、北の端に土塁があり、その上に稲荷神社があります。

その稲荷神社の裏には、綺麗に整備された堀と土塁があります。

堀と土塁だけでもスゴイですが、木の柵がとてもイイ味出してます。リアルにするならもっと高いかもですが、この低さが相対的に周りを大きく見せています。こういう雰囲気、とても大好きです




三の曲輪には、鉢形城のシンボルともいうべき四脚門が復元されています。9年前に来た時には、ほぼここしか見ていませんでしたが・・・お城に興味を持つようになって年月が経つと、色々見えるようになるもんです。
門の左脇には、大手から三の曲輪に入る虎口があります。虎口を守るには向いていない形に見えますが、どうなんでしょう?史料館の中に復元されていた門の方が、ここにはピッタリな気がします。でも、今更もう遅いですよね?w

四脚門から中に入ると、左側にある石積み土塁が目立ちます。なぜここにこんな頑丈な土塁が?なんて思いますが・・・発掘調査の結果、鉢形城の土塁はみんなこんな感じだったという事でしょうか?せっかく資料館入ったのに、説明文は全く読んでいません。どこかにそれらしい事が書かれているかというと、それもどうか知りませんけど


セオリー通りなら、立派の土塁の向こう側には堀が・・・そう思って土塁に登ると、堀と言うより谷で隔てられています。

虎口の外には、諏訪神社があります。三の曲輪から見て堀の外側がココです。堀に沿って土塁が巡っており、曲輪だったようです。

諏訪神社の裏には、こんな立派な堀が残されています。

諏訪神社から見た、四脚門脇の虎口です。虎口の前の曲輪ということは、馬出だったのかもしれません。

鉢形城で一番面白いと感じたのは、大手の周辺です。写真では大した大きさに見えませんが、かなりの幅と深さがあります。こんな堀が縦横無尽に複雑に入り組んでいます!

堀の内側を南へ下った所にあるのが、弁天社跡と呼ばれる所です。上から見た感じでは、水が溜まってぬかるんでいます。周りが土塁で囲まれており、曲輪のような形をした水堀だったのでしょうか?この囲みの中で1ヶ所だけポコっと高くなった所に、弁天様の祠があったのかも。

その弁天社跡と接する伝逸見曲輪の城塁に、石垣が見えました。特に案内も無く、ここを見に来る人も殆ど無いのですが・・・鉢形城内では一番まとまった石垣です。見た感じ、後世の復元でもなさそうなのですが、どうなんでしょう?

上の石垣を見ようと近づいて行くと、突然先の方でかなり大きな音がしました。何だろう?とそちらに視線を向けると、何やら大きな獣が走っています。鹿さんですw弁天社跡でくつろいでいた所に私が近づき、驚いて逃げたのでしょうか。知らずに近づき過ぎていたら、身を守ろうと襲われていたかもしれません


弁天社跡の隣にあるおくり泉水です。ここもちょっと水が溜まっており、巨大な水堀だったように見えます。底には畝のような模様があり、北条さんの城跡っぽさを醸し出していました。

最後に城内の真ん中を流れる深澤川です。攻められるとこの川をせき止めて、簡単には渡れないようにしていたそうです。そんな事したら外曲輪が孤立するじゃないか・・・?w川の両岸は切り立った断崖なので、立派に堀の役割を果たしたと思われます。
9年ぶりに訪ねましたが、前回とは見え方が全く違いました。前回はちっちゃな門が1つしかない、つまらない所だという印象でした。しかし、改めて訪ねてみると、流石は北条ファミリーの城だと感心しっ放しです。弟さんの八王子城に勝るとも劣らない名城です!
■歴史■
皆様よくご存じのお城なので、本当にザックリとだけ紹介します。
1476年、山内上杉家に叛いた長尾景春(白井長尾家)が築く(長尾景春の乱)
1478年、扇谷上杉家臣の太田道灌に攻められ落城。山内上杉顕定が居城とした。
1510年、関東管領・山内上杉顕定が戦死し、養嗣子・上杉顕実が居城とした。
1512年、上杉憲房方の横瀬景繁と長尾景長(足利長尾家)が攻め落城。
1546年、秩父の大族・藤田氏の養子となった北条氏邦が城主となる。
1569年、武田信玄の小田原攻めの際、鉢形城も攻められた。
1574年、上杉謙信が関東に侵攻した際、城下に放火された。
1590年、小田原征伐で攻められ1ヶ月後に落城。戦後は徳川家康の城に。
1600年、徳川家直轄領となり、この時に廃城になったと思われる。
やれば出来るじゃん(`・ω・´)v
所在地:埼玉県大里郡寄居町鉢形
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