2017/03/11
横川城/鹿児島県霧島市
こ横川城は立派な堀切と大きな土塁のある山城でした。訪問日は2015年12月29日です。

横川中学校脇を通り過ぎ、ちょっと進んだ所が登城口です。
道は細いのですが、目の前に立派な駐車場があります


角度を変えて、登城口を真正面から。
歩きやすいように道が整備されています。

だいぶ登った所です。
登城路が曲げられ、上の曲輪から狙い撃ちされる構造です。
ちょっと専門家っぽい言葉だと、よ・こ・や


何度も道は屈折させられながら、ようやく上が見えて来ました^^

その先の角を曲がると、そこにはラブリーな堀切様が待っていました


まずは左側の一段低い方の曲輪へ。
わざわざ藪から見るのは仕様ですw
こちら側は平坦なだけで、特に造作はありません。

今度は堀切の反対側へ。
さっきの曲輪は堀底から大して高さはありませんでした。
しかし、こちら側はこんな感じでかなり高低差があります。
二郭は登城口を登ってくる敵を迎撃しつつ、奪われても主郭から狙い撃ちされるようですね。

登り切った主郭です。
こちらはかなり広い上に、端にはかなり立派な土塁が付けられています。
東屋の陰に写っている白い物は、横川城について書かれた説明板です。
土塁の上のとんがった石碑の方がちょっと気になりますよね?w
たぶん城址碑なのですが、文字は読み取れませんでした

◆歴史◆
鎌倉時代はじめに横川時信により築かれました。
築城は1219年で、横川時信のことを「大隅守護」と書いたサイト様もありました。
鎌倉時代初期は島津忠久が大隅守護でしたが、比企の乱後は北条氏が守護でした。
ということは、横川氏は在地の有力土豪で、守護に近い関係だったのかもしれませんね。
横川氏は6代続き、南北朝時代まで横川を領有しました。
北原氏の城になりました。
室町時代に入り、南北朝時代には北原兼延の城となりました。
北原氏は日向守護・畠山直顕に従うことで、真幸院の領主となりました。
真幸院を地盤にさらに勢力を拡大し、横川も支配下に入れました。
1562年、菱川氏の城になりました。
島津氏や相良氏、伊東氏と渡り合って来た北原氏が没落しました。
きっかけは1558年に北原兼守が跡継ぎのないまま没した事です。
従兄弟を娘に婿入りさせ家督を継がせるよう遺言していましたが・・・
その娘も間もなく没してしまい、家督を巡って争いが始まりました。
ここで北原兼守の正室の父・伊東義祐が干渉し、馬関田右衛門佐を北原氏当主にしました。
馬関田右衛門佐は北原氏の庶流で、北原兼守の未亡人に婿入りさせたのでした。
さらに、猛反発する北原家中を抑えるため、その急先鋒だった北原兼孝を殺してしまいました。
こうして伊東氏により、北原家が乗っ取られました。
これに対し、島津貴久は相良義陽のもとに居た北原兼親を北原氏の当主にしようと動きました。
北原兼親は北原兼守の兄の子で、本当であれば北原氏を継いでいてもおかしくない人物でした。
幼い頃に父親が没したため、その弟が後見となりそのまま家督を奪われていたのでした。
島津貴久は、北原兼親を奉じて相良氏や菱刈氏とともに真幸院へ侵攻。
横川城は北原伊勢介が守っていましたが、説得に応じなかったため攻め落としました。
戦後、横川城は島津軍に協力した菱刈重猛に与えられました。
1567年、菱刈氏が去りました
1566年に菱刈重猛が没すると、その弟・菱刈隆秋が島津氏に叛きました。
菱刈隆秋は兄の子・千鶴丸を奉じて兵を挙げました。
島津軍が菱刈軍の守る馬越城を攻め落とすと、菱刈一族は大口城に集結。
この時、横川城を守っていた菱刈中務も大口城へ移りました。
島津軍が大口城を激しく攻め、千鶴丸に曽木と太良を安堵する条件で菱刈隆秋は降伏しました。
横川城はこの戦の後、廃城になったとみられます。
所在地:鹿児島県霧島市横川町中之城山
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