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栗野城/鹿児島県湧水町

栗野城は現地では松尾城と書かれています。
鹿児島には「松尾城」が沢山ありますが、なぜなんでしょう・・・?
訪問日は2015年12月29日です。

【写1】栗野城

栗野城跡は公園として綺麗に整備されています。
城跡の入口の道路がこんな感じになっており、既にテンションアップアップアップです!

【写2】栗野城

こんな風に冠木門があったかどうかは?ですが、まぁいいですw

【写3】栗野城

その脇にかなり広い駐車場があります。
細長いのは、曲輪の形がそうだったからでしょうか?
左側はこんもりと高くなっており、右側には出口に繋がる道が真っすぐ通っています。

【写4】栗野城

そのこんもり高い方です。
足元に白い説明板があり、島津義弘の城だったと書かれています。
戦国の超大物武将が、5年もここで暮らしていたんですね!

【写5】栗野城

このこんもりには鹿児島では珍しく、かなり石垣が多用されています。
とはいえ、説明板の後ろにある石段は多分遺構じゃなさそうですが・・・
どうなんでしょう?
本物とそうでない物は、ちゃんとわかるようにして欲しいですね。

【写6】栗野城

あり得ない位に登りやすい石段のテッペンは、石垣の虎口になっています。
登りやすいが故に、ココで足止めを食らわせて敵を一気にまとめて落とす・・・
なんて戦術はアリなのか、無しなのか。
つい妄想モードが始まってしまいますw

【写7】栗野城

登ってみると、下から見た時には想像もつかない位に広かったです。
いきなりですが、ここが主郭です。

【写8】栗野城

石垣は上の方だけでなく、下の裏側にもビッシリ組まれていました。
総石垣というより、足りない部分や補強に石垣を使ったように見えます。

【写9】栗野城

主郭の駐車場側の足元です。
こちらは石垣がありませんが、土の急斜面となっています。
取っ掛かりが無い分、石垣よりも登りヅライですよね?

【写12】栗野城

奥へ進むと、鹿児島らしい堀切があります。
左側が主郭で、右側が二郭です。
城跡の公園は入っていきなり主郭なので、裏側から入ってますね。
本来はこっちが手前になるハズなのですが・・・
航空写真を見ると、周りは野球場やグラウンドになっています。
お城の主要部分が辛うじて残されたという感じなのでしょうね。

【写10】栗野城

二の丸の登り口です。
この道もお城があった時のものか?です。
ただ、主郭のように綺麗な石段が付られていないのが好感を持てます。
防御施設としてどんな仕掛けがあったのか、何だか気になって来ました。


◆歴史◆

北原氏の城でした。

築城年代は明確ではありませんが、南北朝時代だと考えられています。
その頃から戦国時代まで、肝付氏庶流の北原氏の城でした。

はじめは幕府の後ろ盾で勢いを増した日向守護・畠山直顕に従っていました。
畠山直顕が真幸院を押領した時に、その一部が北原氏に与えられました。
その後、畠山直顕は失脚して日向を去りましたが、北原氏はそのまま残りました。

真幸院は肥後・薩摩・大隅・日向の境目にある、とても交通の便の良い場所でした。
・・・少なくとも当時はそうだったようですw
そのため、相良氏や島津氏、肝付氏、北郷氏、伊東氏ら大勢力が争奪戦を繰り返しました。
その中にあって、北原氏も彼らと互角の兵力を持ち、鎬を削りました。

1560年頃、伊東氏→菱刈氏の城になりました。

1558年、北原兼守が跡継ぎのないまま没しました。
北原兼守は従兄弟を自分の娘の婿に迎え、家督を継がせるよう遺言していました。
しかし、その娘が間もなく没したため、北原家中で家督争いが始まりました。

この争いに北原兼守の正室の父・伊東義祐が横やりを入れます。
伊東義祐は北原氏庶流の馬関田右衛門佐に未亡人となった娘を娶せ、乗っ取りを図りました。
しかし、北原家中で猛反発が起きたため、反対派筆頭の北原兼孝を殺して黙らせました。
この時に、伊東義祐は北原氏の領地の大半を横領し、栗野もその中に含まれていました。

この動きに対し、島津軍は伊東方の馬関田城や横川城などを攻め落としていました。
島津貴久は伊東氏から奪った栗野と横川を、菱刈氏に与えました。
さらに、島津貴久は相良頼房の元に居た北原兼親を後継者に立て、飯野城に入れました。

北原氏が真幸院に復帰しましたが、かつて家督争いで対立した家臣達が去ったため孤立・・・
単独で周囲からの圧力には耐えられなくなりました。
そのため1564年、島津貴久は北原兼親を伊集院に移し、島津義弘を飯野城に入れました。

1568年、たぶん島津氏の城になりました。

1567年、菱刈隆秋が島津義久に叛旗を翻しました。
そのため島津軍は菱刈氏の諸城を攻め、1568年には大口城を攻めて菱刈隆秋は降伏しました。
菱刈隆秋は相良義陽の人吉へ去り、その領地は新納忠元に与えられました。
菱刈中務が居た横川城や菱刈隆秋の栗野も島津氏の領地になったと思われますが・・・
どれだけググっても、ハッキリ誰が城主になったと書かれたサイトは見つかりませんでしたあせる

その後の島津氏は・・・

1577年、伊東氏を日向から追放
1578年、耳川の戦で豊後の大友宗麟を撃破
1581年、水俣城攻めにより肥後の葦北郡をゲット
1584年、沖田畷の戦で肥前の龍造寺隆信を討ち取る

とまぁ、破竹の勢いで勢力を拡大しました。
しかし、1587年に豊臣秀吉により討伐され、領地は元の薩摩・大隅2国となりました。

1590年、島津義弘が居城としました。

飯野城は島津義弘の子・久保に安堵され、島津義弘が栗野城へ移りました。
この時期から推測すると、1587年に築城を開始し1590年に移ったということでしょうか。
島津義弘は1595年に帖佐へ移るまで、栗野城を居城としました。
川上三河守が城代となりました。

1615年、廃城となりました。

一国一城令により廃城となり、栗野麓が置かれました。
地頭仮屋は栗野小学校の場所にあったそうです。


所在地:鹿児島県姶良郡湧水町木場

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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