2017/03/03
太良城/鹿児島県伊佐市
太良城は別名「本城」とも呼ばれ、北薩の雄・菱刈氏の本拠地でした。訪問日は2015年12月29日です。

太良城の登城口は、東側の道沿いにあります。
南から見たのが上の写真ですが、車で走りながらだとちょっとわかりづらいです。

事前のリサーチでは、登城口に城跡の標柱がありました。
しかし、標柱は見当たらず、何往復か真横を通った時に「もしかしてココ?」と思いました。

上の階段を登った所がココです。
アタリでしたヾ(*´∀`*)ノ
やはり、木製の標柱は長持ちしませんね・・・

拡大図
早速パクります。
今はもう無いモノがいくつも描かれているような気がします。

説明板から右の主郭側を見た所です。
ガッツリやっちゃった感が漂います。
どこから登るんだ?なんて、一瞬迷います。

よく見ると、コンクリート城塁の脇を歩いた跡がありました。

その先は、かなり細々とした道が上まで続いています。
急斜面に付けられた道なので、歩いていてちょっと怖かったです。

主郭内部の様子です。
切り立った断崖上に、まとまった平場があります。
土塁や虎口などはミアタラズ、表現すると↑の感じになります。

木が伐採されてはいるので、眺めはとても良いです。
江戸時代には、すぐ北にある小学校の場所に地頭仮屋が置かれていました。

最初の階段を登った所にある広場から、今度は逆方向を見て来ました。
ちなみに、この広場はかなりデカイ堀切だそうです。

二郭へと続く道は、土塁が付けられています。
造成した時にやられたものかもしれませんが・・・

二郭です。
虎口や堀、土塁などの造形は無く、平らに馴らされた平地です。
山上にこれだけの広さの平地があるだけでも、かなり立派な遺構なんですけどね。
◆歴史◆
菱刈氏の本拠地でした。
菱刈氏は、1156年に後白河天皇から菱刈院と太良院を与えられた菱刈重妙を祖とします。
菱刈重妙は源頼朝からも領地を安堵され、1194年に当地に下向しました。
菱刈重妙の弟・師重には入山、長子・重隆に馬越、三男・重茂に曽木を分け与えられました。
太良城はこの頃に築かれ、次男の菱刈重実が家督を継ぎました。
1569年、菱刈氏が滅びました。
菱刈氏は相良氏や渋谷一族、蒲生氏らと組んで、島津氏と争いました。
戦国時代までは島津氏とどっこいどっこいだったのですが・・・
島津貴久の代に島津氏は勢力を拡大し、1557年に蒲生氏を降しました。
島津義久が家督を継ぐと、1567年には馬越城、1569年には大口城を攻め下しました。
菱刈隆秋は相良義陽の勧めに従って降伏し、太良と曽木が菱刈鶴千代に安堵されました。
1574年、菱刈重広が伊集院神殿に移されました。
菱刈重広は鶴千代の事で、菱刈重猛の子です。
叔父・菱刈隆秋が人吉へ移った(らしい?)後、菱刈家の当主となりました。
しかし、島津氏と数百年もの間争った菱刈氏が安寧を得られるハズもなく・・・
5年後の1574年に、謀反の疑いを掛けられて伊集院の神殿に移されました。
「神殿」は「パルテノン~」のような建物ではなく、地名らしいですw
以後は島津家の直轄地となった・・・ようです。
ここらがよくわからないんですよね

江戸時代には、本城小学校の位置に本城麓の地頭仮屋が置かれていました。
所在地:鹿児島県伊佐市菱刈町南浦
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