2017/02/08
松尾城/鹿児島県さつま町
松尾城は虎居城の対岸にありました。訪問日は2015年12月29日です。

虎居城へはバリケードで入れず、日暮れ時に慌てて対岸まで車を走らせました。
川内川を挟んだ対岸には、松尾城跡に宮之城歴史資料センターがあります。
地形は何となく?な雰囲気ですが、遺構は無さそうな雰囲気です。

駐車場の脇には、何となくそれっぽい雰囲気の所も。
綺麗に丸められた感じなので、ここも遺構ではないでしょうけど。

この脇に上に上がる階段があり登ってみると、一面のっぺりした広場が。
だいぶ薄暗くなってきた広場の端に、何やら案内の板がありました。
図があったので「城の縄張り図か?」と思い、ふらふらっと吸い寄せられました。
しかし、そこに描かれていたのはお墓の配置・・・
ただ、その横に書かれた説明文には、僅かですが、松尾城についても書かれていました。

ここは宗功寺というお寺の跡地で、お墓は宮之城島津家歴代当主のものでした。
そう思って見ると、1基ごとに屋根が付けられ立派なもんですね!
◆歴史◆
詳細不詳ですが、松尾城について拾い集めたのは以下の通りです。
大前氏により築かれたと考えられています。
大前氏は平安時代には薩摩大国司を務めた、在地の有力土豪です。
源平の争いの時代を生き残り、鎌倉時代にも勢力を維持し続けました。
周辺には渋谷一族が地頭として配置され、次第に対立するようになりました。
南北朝時代に渋谷氏の城となりました。
現地の説明板によると、康応の頃(1389年)から渋谷氏が在城したとありました。
書かれていたのはこれだけですが・・・
渋谷一族と大前氏の争いはわからない事だらけです。
大前氏がいつ滅びたのかさえ?なので。
これはかなり大きなヒントになりそうですね。
虎居を支配するようになった渋谷氏の一族は、地名から祁答院姓を名乗るようになります。
1557年、蒲生範清が落ち延びて来ました。
島津貴久と3年にわたって戦い続けていた蒲生範清が敗れ、祁答院に落ち延びて来ました。
蒲生範清は蒲生城城門の鍵を島津軍に渡すと、城に火を放って退去したそうです。
その蒲生範清が頼って来たのが祁答院良重で、松尾城に迎えられました。
1566年、祁答院家が没落しました。
祁答院良重が妻に殺され、祁答院家は当主不在となりました。
家老の三人が話し合った結果、祁答院氏の領地は全て、入来院重嗣に譲渡されました。
そのため、蒲生範清も入来院氏を頼ることとなりました。
1569年、入来院重嗣が島津義久に降伏しました。
菱刈隆秋が島津義久に敗れ、領地を失い没落しました。
それまで菱刈氏とともに島津氏と対立していた入来院重嗣は、東郷氏とともに降伏。
両氏は領地を全て差し出し、それぞれ本貫地のみを安堵されることとなりました。
入来院氏に居候していた蒲生範清は、この時に松尾城を退去したものと思われます。
蒲生範清はその後、入来院氏から隈之城青木門を捨て扶持として与えられました。
その後の松尾城というか、祁答院氏没落後の松尾城については推測の域を出ません。
1603年、城跡に宗功寺が建立されました。
祁答院から宮之城に地名が改められた後、島津忠長が菩提寺として宗功寺を建立しました。
ということで、この時までには松尾城は廃城になっていたようです。
その宗功寺も廃仏毀釈により廃寺となり、宮之城島津家のお墓だけが残っています。
所在地:鹿児島県薩摩郡さつま町虎居(宮之城歴史資料センター)
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