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出水城/鹿児島県出水市

出水城は立入禁止で、城跡の主要部は見ることが出来ません。
訪問日は2015年12月30日です。

【写1】出水城

最初に向かったのは、城山墓地です。
お墓だけあって、車で行けます♪
駐車場がすぐ近くにあり、目の前にある公園の入口に説明板があります音譜
細長い削平地が奥まで伸びており、ここも郭の1つだった面影が残ります。

【写2】出水城
拡大図

説明板に載っている図です。
こういうのがあちこちの城跡に広まると嬉しいんですが・・・
どこが何で、どう散策しようかがその場でわかりますからね!

【写3】出水城

・・・ですが回れ右すると、道の真ん中が鎖で通せんぼされています。
正面の道が郭と郭を隔てる堀ですが、その手前に「立入禁止」と書かれた札が。
「入山される時は下記に連絡下さい」とあるので、正確には「無断立入禁止」でしょうか。
訪ねたのがお役所が休みの年末だったので、連絡しませんでした。
ただ、「連絡して入った」という登城記が見つからないので、連絡すれば入れるのか?です。
たぶん、入れてくれるとは思いますが。

【写4】出水城

墓地側からの登城記が多かったものの、地図を見てると北側にも入口がありそう!
ということで来たのが、北側のなごみ亭脇にある入口です。
ここも駐車場が出水小学校沿いにあります。

【写5】出水城

入口から進むと「城山道」の案内が!
そして、道は奥へと続いています。
これは行けるか?!と、期待は高まりました。

【写6】出水城

しかし、緩い左カーブの山道を進んで行くと、何やら不吉な白い板が・・・
近づいてみると、墓地と同じ文面で「立入禁止」と書かれていました。
「こっちもダメだったか・・・」ということで、出水城攻略は終わりました。

これ書こうとググっていたら、「出水城(亀ヶ城)跡 探検会 - 出水市」が出て来ました。
その日付が平成27年1月17日ということで、私が訪ねた3週間後の日付でした。
見てみると、城跡のド真ん中を思い切り散策する内容でした。
参加された方がうらやましいですハートブレイク


◆歴史◆

建久年間(1190~99年の間)、和泉兼保により築かれたとされます。

和泉兼保は伴姓和泉氏で、和泉荘の弁済使下司職でした。
伴姓というと、島津荘の荘官で後に肝付氏が思い浮かびます。
肝付氏の祖は伴兼行で、968年に薩摩掾に任命されて翌年下向しました。
4代目の伴兼貞は島津荘の領主・平季基の娘婿となり、三州の大半を継ぎました。
伴兼貞は多くの子に領地を分け与えましたが、その中に「和泉行俊」が居ました!
この和泉行俊は、肝付氏初代・肝付兼俊の弟です。

南北朝時代に島津系和泉氏が領主となりました。

島津氏4代目・島津忠宗は、多くの子に領地を分け与えました。
その中の1人が和泉忠氏で、島津系和泉氏の祖となります。
和泉忠氏は1336~92年の間に和泉荘を譲られたそうですが・・・
和泉忠氏の父・島津忠宗は、1325年にこの世を去っています。
そこから70年も幅があると、その前に和泉忠氏が世を去りそうですあせる

伴系和泉氏は、1354~55年にかけて激しく島津氏と争ったそうです。
これらをグチャっと丸めると、北朝方の島津氏が南朝方の和泉氏を滅ぼした、、、のかも。
その名跡と領地を、島津忠宗が子に継がせたのかもしれません。

1417年、島津系和泉氏が滅びました。

1417年、5代目の和泉直久が跡継ぎ無く戦死したため、島津系和泉氏が断絶しました。
これは島津久豊と島津久世との間で行われた、川辺の鳴野原での激戦でした。
・・・サッパリ?ですよねw
もー、ゼッタイに図を書きながらでないと理解不能です。

【図】島津家の争い

島津久豊(総州家)と島津久世(奥州家)の争いに、伊集院頼久が絡みます。
ザックリ書きます!(と自分に言い聞かせる)

スタートは島津伊久と守久の親子喧嘩です。
島津伊久は、従兄弟の島津元久に調停を依頼。
その見返りとして、島津宗家の家督と三州の守護職を島津元久に譲りました。
しかしその後、島津元久と島津伊久は対立するようになります。

三州の守護・島津元久の子は全員出家しており、後継者がいませんでした。
島津元久とその弟・島津久豊は、日向の伊東氏への対応を巡り不仲でした。
そこで義理の弟・伊集院頼久が、自らの子を島津元久の跡継ぎにしようと画策。
島津元久もその気になり、伊集院頼久の子を跡継ぎにすると遺言。
島津元久の葬儀に島津久豊が突然現れ、位牌を持ち去り強引に家督を継ぎました。

そのため、島津久豊と伊集院頼久の間で戦が始まりました。
奥州家と争っていた総州家の島津久世は島津久豊と和睦しており、その配下となっていました。
しかし、島津久豊が伊集院頼久を攻めた際、島津久世は突如伊集院方に寝返りました。
この返礼として、伊集院頼久は島津久世に川辺の地を譲りました。

島津久豊はその報復として、島津久世の川辺を攻めました。
伊集院頼久は島津久世に援軍を送り、川辺の鳴野原で激戦となりました。
戦いは島津久世・伊集院連合軍が大勝し、島津久豊を追い詰めました。

この時に島津系和泉氏5代目の和泉直久が戦死しました。

このたった1行を書くのに、前置きが随分と長くなりましたあせる
意外と背景の出来事の方に熱が入ったりしますw

1453年、島津用久(薩州家)が出水城を居城とするようになりました。

島津用久は島津家当主・島津忠国の弟です。
島津忠国は上の図だと島津久林・伊集院熙久らと戦っていました。
さらにこの図にはありませんが、同じ時期に渋谷一族とも戦っています。

1432年頃から戦は熾烈を極め、自信を失った島津忠国は一時隠居しました。
この時に弟の島津用久に、家督と三州の守護職を譲りました。
島津用久は戦に勝ち、島津家の威勢は再び高まりました。
すると次の後継者を巡り、島津忠国と島津用久が対立するようになりました。
島津忠国は家督譲渡は一時的なつもりでしたが、島津用久はそう思っていませんでした。
両者の争いは島津家中を二分し、一時は島津用久が優勢となりました。

しかし、室町幕府がこの争いに介入し、1441年と1442年に島津用久討伐の御教書を発行。
すると、官軍となった島津忠国が劣勢を覆し、1448年に両者は和睦しました。
島津忠国は島津用久に薩州家を立てさせ、出水・阿久根を与えました。
島津用久は出水城を本拠とするようになりました。

1593年、島津忠辰が改易・病死したため、城主不在となりました。

島津忠辰は島津薩州家の7代目です。
当時宗家だった島津義久とは距離があり、豊臣秀吉には先に降伏していました。
1593年の朝鮮出兵(文禄の役)で、豊臣秀吉は島津義弘に従うよう島津忠辰に命じました。
しかし、島津忠辰は別行動を望みましたが、豊臣秀吉はこの申し出を却下しました。
すると、島津忠辰は病と称して朝鮮に上陸しなかったため、豊臣秀吉が激怒。
島津忠辰は改易を言い渡され、小西行長に預けられました。
その後間もなく島津忠辰は病死し、島津薩州家は断絶しました。
出水の地は、豊臣秀吉の蔵入地(直轄地)となりました。

1599年、出水が島津家に返還されました。

朝鮮出兵の功として、島津義久に出水が返還されました。
島津義弘は本田正親を出水の地頭とし、出水の整備に着手しました。
出水麓は肥後国と境を防衛するため、多くの郷士を住まわせる必要がありました。
一国一城令により外城制を敷いた後も整備は続けられ、地頭3代・30年に渡りました。
出水麓は116か所ある薩摩藩の麓で最大となり、他の麓を整備する際の手本となりました。
以後の行政単位は、今でもこの時整備された麓が基本となっています。


所在地:鹿児島県出水市麓

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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