2017/01/15
紅葉城/鹿児島県出水市
紅葉城は元は高尾野城と呼ばれていました。訪問日は2015年12月30日です。

紅葉城は、国道504号沿いにこんな感じで石垣があります。
場所も街から山へ向かう途中にあり、たぶん普通に走ってても目に飛び込んで来ると思います。
・・・それは一部の人種に限った事かもしれませんが

この裏が公園なので、安心して車を停めておけます。

「ちゃんと綺麗に残ってるなぁ」なんて感心しながら石垣に登ると、立派な城址碑があります

「紅葉城址」の文字もハッキリ読み取れますし、変にテカテカ反射したりもしません。
足元のツツジもいい感じに配置されていて、とても見栄えの良い城址碑です


ただ、石垣の配置があまりに不自然で、お城の構造がサッパリ見えませんでした。
石垣から国道を挟んだ反対側はこんな風景です。
地形にかなり人為的なものを感じ、城跡だからかな~なんて思っていました。
しかし、説明板の最後の一文は「城は跡形もなくなってしまった」とありました。
埋め立てをするための土砂採取で、きれいさっぱり無くなっていたとは・・・
石垣は趣のあるいい感じでしたが、遺構は全く無い城址碑だけの城跡でした。
◆歴史◆
ググっても殆ど何も出ず、聖典『日本城郭体系』にも登場しません。
なので、現地説明板の記述に沿って調べてみました。
ということで、まずは現地説明板をまるまる書き写します。
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資料が無いので不明な点が多いが、中世の山城で、古くは高尾野城と呼ばれていた。地理的に見て肥後の国や宮之城(祁答院)に対する防塁として、この土地の豪族達が利用したものと推定される。
島津氏の入国に反対する反抗・南北朝時代の争乱・1442(応永29)年の総州家、守久の最後の決戦場、国一揆による反乱、さらに、豊臣秀吉の島津征伐にも利用されたと思われる。太閤蔵入地になっていた当地が、1599(慶長4)年、再び島津氏の領土となるやこの城を重視し阿久根の地頭、宮原左近将監景晴に命じて城の修築にかかったが、1615(元和元)年、江戸幕府の一国一城令により廃城となった。(このころから「紅葉城」と呼ぶようになったのであろう。)そしてこの城の周辺も武士達の殆どは馬場(麓)に移住させられた。
第2次大戦末期には、軍の防空壕となり、また、戦後埋め立て用土等にシラスは採取され、城は跡形もなくなってしまったのである。
1993年10月 出水市教育委員会
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「肥後の国や宮之城(祁答院)に対する防塁として~」
鎌倉時代からお城があったようですね
築城主はやはり島津氏でしょうか。
それまでは貴族が任命した土豪が、現地で税の徴収を行ってきました。
鎌倉時代になると、幕府も全国各地に地頭を任命し、二重支配が始まりました。
島津荘の下司職に任命された島津忠久は、側近の本田貞親を薩摩に下向させました。
肥後の国で薩摩と境を接したのは、多良木荘の相良氏です。
相良頼景は遠江国の武士で、源平合戦では最後まで平家方でした。
平家滅亡後は謝罪を繰り返すことで命拾いし、遠く肥後国の地頭に任命されました。
当時の地頭は任地には赴かないことが多かったのですが、相良頼景は初めから肥後に来ました。
そのため、流罪になったのではないか?という説まであります。
源頼朝に近侍した島津忠久から見ると、相良頼景は気になる存在だったかもしれません。
南東の宮之城には、祁答院郡司の大前氏が居ました。
島津氏が拠点とした山門院や南の莫禰氏は協力的でしたが、大前氏は違ったのかもしれません。
祁答院には薩摩の国府があり、在庁の官人としては首座にあったそうです。
平清盛の異母弟・平忠度が国司を務めており、大前氏は平家寄りだったと思われます。
薩摩の守護所が国府の祁答院に置かれなかったのは、そのためでしょうか?
城跡の脇を通る国道502号は、祁答院に通じています。
昔の街道筋そのままだとすると、祁答院と山門院をつなぐ街道を押さえていたことになります。
「島津氏の入国に反対する反抗・南北朝時代の争乱~」
島津氏の当主が本格的に薩摩で活動するようになるのは、5代目の島津貞久からです。
島津貞久は足利尊氏を助け、初代以来の薩摩・大隅・日向三州の守護に復帰した人物です。
薩摩に下向した島津貞久は、守護所を木牟礼城から川内の碇山城へ移しました。
薩摩では伴姓和泉氏や大前氏、薩摩平氏の谷山氏などが、南朝方として島津氏と戦いました。
島津氏にとってもっとも脅威だったのが、大隅の肝付氏でしたが・・・
1342年、征西将軍・懐良親王が谷山城に入り、南朝方は一気に勢い付きました。
島津貞久が居城とした東福寺城も攻めれた程です。
島津貞久は山門院を野田川を境に東西に分割し、西を島津、東を山門院郡司の本貫としました。
高尾野城は野田川の東にあるため、おそらく郡司の山門氏の持ち城になったと思われます。
「1442(応永29)年の総州家、守久の最後の決戦場、国一揆による反乱~」
島津総州家の島津守久は、島津奥州家の島津久豊と争っていました。
元々は父・島津伊久との親子喧嘩で、総州家の島津元久が調停しています。
島津伊久はこの御礼に、薩摩守護職と伝家の家宝を島津元久に譲ってしまいました。
将来自分が継ぐはずのものをよそに譲られた島津守久は、面白くなかったでしょう。
・・・1回最後まで書いてみたら長くなったので、バッサリ切ります(´・ω・`)
島津総州家(守久-久世-久林)は、島津奥州家(元久-久豊-忠国)と争いました。
1417年に島津久世は島津久豊との和議の際に謀殺され、島津久林が祖父の元へ逃れました。
ここからは島津奥州家が一方的に攻め、1422年、島津守久・久林は肥後へ逃れました。
1430年、島津久林が薩摩へこっそり戻ろうとした所を、島津忠国にバレて殺されました。
これにより、島津総州家は滅びました。
その後、島津忠国は日向の伊東氏を攻めて大敗し、一気に人心が離れました。
ここで島津忠国に敵対したのは渋谷一族や伊集院煕久らです。
説明板の1442年は、島津総州家ではなく国一揆の方を指しているのかもしれませんね。
島津忠国は弟・用久に一時家督を譲り、弟の快進撃により劣勢を挽回しました。
すると、島津忠国は当主への帰り咲きを目論むようになり、島津用久と対立しました。
この兄弟喧嘩が落ち着くのが1448年です。
島津忠国は仲直りした弟・用久に薩州家を興させ、出水一帯を与えました。
「豊臣秀吉の島津征伐にも利用されたと思われる~」
1587年、豊臣秀吉が島津家を討伐しました。
原因は・・・いいですよね?w
薩州家の島津忠辰は、宗家の島津義久より先に降伏しました。
そのため、まだ抵抗を続ける島津義久討伐の拠点になった、かもしれません。
豊臣秀吉は1592年に朝鮮に出兵しました。(文禄の役)
この時、島津忠辰には島津義弘と行動をともにするよう命じました。
しかし、島津忠辰は別行動を希望したものの、豊臣秀吉は拒否しました。
すると、島津忠辰は病と称して朝鮮半島に上陸せず・・・
豊臣秀吉は激怒し、島津忠辰は改易されました。
ただ、病だったのは本当のようで、島津忠辰は病没しました。
島津薩州家は断絶したため、その領地は豊臣家の蔵入地となりました。
「1599(慶長4)年、再び島津氏の領土となる~」
朝鮮出兵の功として、出水一帯が島津家に返還されました。
出水には本田正親、阿久根には宮原景晴が地頭として入りました。
宮原景晴はこの時に高尾野城を修築し、居城としました。
「1615(元和元)年、江戸幕府の一国一城令により廃城」
一国一城令が出されると、島津家では外城制をとるようになりました。
外城制とは家臣団を拠点に集住させ、有事に備えるための仕組みです。
・・・今までと変わらないような気もしますけどw
出水では出水城に麓が整備され、高尾野城下の武士は出水麓へ移されました。
これにより高尾野城は廃城となりました。
こんな感じでしょうか。
高尾野城が「紅葉城」と呼ばれるようになったのは、廃城の後からだそうです。
今は土砂採取で跡形も無いのですが、紅葉の多い山だったのでしょうか?
所在地:鹿児島県出水市高尾野町柴引
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コメント
無題
2017/01/15 22:55 by トシraud URL 編集
Re:無題
島津義弘の配下だったなんてスゴイ!1593~99年の間、ココは豊臣家の蔵入地ですから、1597年に始まった慶長の役では、別の所にいらっしゃったのかもしれませんね。
2017/01/16 19:24 by なぽ URL 編集