2017/01/07
川田城/鹿児島市
川田城は県道211号沿いにあった丘城で、馬越城とも呼ばれます。訪問日は2016年12月29日です。

川田城は県道211号沿いにあり、ここが目印となります。
〇で囲んだ所に説明板があり、その反対側に車を停めておくことが出来ます。
登城口がわからず辺りをグルグル回りましたが、最終的には□の所から登りました。

ここが上の写真で□で囲んだ所です。
舗装道ですが、上に車を停める所はありません。

道なりに進み、右に大きくカーブした所にこの石垣があります。
この積み方といい、苔むし具合といい、かなり古いものですね!
もしかしたらお城があった頃のものかもしれません。
・・・という事で、城キチあるあるの「とりあえず撮り」ですw

この石垣で囲まれた部分は民家の裏手になっており、ココから城跡に入れるようです。
城主様のお屋敷があったのでは?という、とてもそれっぽい雰囲気がします


なぜ推測的な言い方になったかと言うと・・・
石垣のすぐ手前の竹藪に入り、ここから直登したからです

途中で下に通じる通路っぽい所に当たり、その先がさっきの石垣の広場に通じていました。
直接歩いて確かめてないので、推測的な書き方にしています。

登り切った所は削平されており、縁には低い土塁がありました。
まぁこんなもんねと思っていましたが・・・

奥へ進むと、土塁がだんだん高くなってきました。
ということは、その裏に何があるのかおのずとわかってきます。
期待を込めて裏を覗き込むと・・・

空堀かと思ったら、深さ10メートル程の、、、何て言うんでしょう、これ?w
とにかくとても登って来れないような、深い堀?が横たわっていました。
鹿児島って、こんな感じに郭どうしが隔てられている城跡がとても多いです。

このとんでもない崖を下りた跡があったので、木に掴まりながら下りてみました。
とても戻れるとは思えなかったのですが、堀の先に道があったのでそこから出るという事で。
やはり、堀?は底から見上げる風景が一番好きです


上の写真の段になった所が道になっており、だいぶ下った所から振り返って撮りました。
鹿児島では空堀をこんな風に掘るのか、それとも自然の地形を利用したのでしょうか?
前者ならとても凄いですけど。

そのまま道を下ると、登って来た道に出ました。
城跡の探索はこれで終わりにしましたが・・・
今これ書くにあたって地図の等高線を見ていると、ここは城域の南端部のように見えます。
お城の主要部はむしろ、北側にある畑のような気が

等高線見てるだけで、曲輪や堀の位置が何となく見えてくるような気がします。
城キチあるあるの「あ、しまった!」ですw
※そう思って『日本城郭体系』を見ると、見て来た所が主郭でしたε-(´∀`*)
◆歴史◆
鎌倉時代末頃から戦国時代まで、川田氏のお城でした。
川田氏は源頼朝の従兄弟・志田頼重を祖とする比志島氏の庶流です。
志田頼重は木曽義仲に味方したため薩摩に流され、薩摩守護・島津忠久に預けられました。
やがて許され信濃へ帰りましたが、子の重賢は薩摩に残り、領地から満家姓を名乗りました。
満家重賢は子に領地を分け与え、長男が比志島氏となり、三男・盛資が川田氏となりました。
川田盛資が父祖の菩提を弔った石塔が残っており、永仁五年(1297年)と彫られています。
初代からバリバリの島津家臣だったようですね。
12代めの川田義朗が大隅国垂水へ移り、廃城となりました。
川田義朗は島津義久の軍配者でした。
伊集院忠倉や岩切信朗から兵法の奥義を授かったそうです。
とは言っても色々読んだ感じでは策略家ではなく、物事の吉凶を占っていたようです。
戦で勝った時に勝ち鬨をあげるのも軍配者の役割だそうですが、決まり事があるようです。
単純に、勝った!→やったー!→えいえいおー!・・・ではなかったのですね

重臣どうしの意見がまとまらない場合には、籤で決めたりもしていました。
また、戦に勝った時には、戦死者が怨霊になるのを防ぐための供養などもしています。
川田氏は一生不犯(結婚しない)の家系なので、代々本家の比志島氏から養子が入りました。
神様にお伺いを立てる者ということで、そんなしきたりがあったのでしょうか。
川田義朗が大隅国垂水へ移ったことにより、川田城は廃城になったとされます。
その時期が?ですが・・・
1574年に一度垂水へ移り、1580年に川田に戻っているようです。
川田義朗は1595年に没し、養子の川田国鏡(比志島国真の子)は1599年に日向に移っています。
どんなに遅くとも、1599年には廃城になったと思われます。
所在地:鹿児島市郡山町川田下 GPSログダウンロードページ
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