fc2ブログ

御幣園城/鹿児島県肝付町

御幣園城も詳しい登城記の無い城跡です。
訪問日は、2016年12月30日です。

鹿児島で「どう登るんだ?」という城跡を先に書いていますが、今シーズンのが多いです。
昨シーズンはそんなに冒険しなかったようで、この1年で成長したのかな?なんて感じます。
どっちの方向に成長してるのかは、横の方に置いときましょうあせる

【写3-1】御幣園城

御幣園城で紹介されているのは、だいたいココです。
下の地図の上の方に印を付けた所です。

【写3-3】御幣園城

コンクリートの階段を登り切った所からは、地面が窪んだ道をまっすぐ登ります。

【写3-4】御幣園城

間もなく高台のテッペンに辿り着き、ちょっと平らに馴らした所に小さな祠があります。
諸兄が紹介されているのは、だいたいココで終わります。

【写1-1】御幣園城

ただ、私はひねくれ者というか、ただの方向音痴というか・・・
諸兄の紹介されているとても目立つ立て札を、私はなかなか見つけられませんでした。

それで「この辺の山がたしか城跡だったような?」で、随分手前(南)から山に入りました。
城跡の脇にある県道は南の方が高く、北の方が低くなっています。
一番高い所から少し下った所で左脇に駐車帯があり、そこから歩いて山に入る所を探しました。
最初に見つけたのがココです。

【写1-2】御幣園城

ガードレールの付いた荒れた道を上がると、すぐに右脇に空き家が現れます。
この上がる坂が堀底のように感じました。
これは奥にきっと何かあるに違いない!と、城跡レーダーがピンと来ました。

【写1-3】御幣園城

そのまま空き家の脇の藪を掻き分けて進むと・・・

【写1-4】御幣園城

空堀の交差点?に辿り着きました。

【写1-5】御幣園城

左側と正面に、まっすぐ伸びる深さ5メートル程の空堀がありました。
事前に準備した資料を見ながら「あれ?ココこんなだっけ?」と、嬉しい誤算でした音譜

【写2-1】御幣園城

2か所目は、南からさらに北へ下り、道の右側にある駐車帯の所です。
(左側に見えるのは、振り返って撮ったからです)
もう入口写ってますが、見えますか?

【写2-2】御幣園城

これが山に入る道の入口に見えた辺り、目が肥えて来たと感動しました。
中を覗き込んだら、ちゃんと人が歩いた痕跡がありました。

【写2-3】御幣園城

山道に入って間もなく、こんな光景が広がっています。
ここはひとの手が入っており、手前の広場みたいな所がよく見えます。
何だか地面がまっすぐ窪んでいますよね?

【写2-4】御幣園城

一番奥はこんな感じです。
どう見ても横堀と土塁ですラブラブ
ただ、ここはあまり残っておらず、残っているのは角を曲がって10メートル程です。
その先は竹がビッシリ茂っており、堀の形もあまりハッキリしなくなります。
城塁を直登して曲輪内へ入ってみましたが・・・
視界には竹しか見えず、とても歩ける状態ではありませんでした。

ここはこれでオシマイ、次!で走り出して見つけたのが一番上の立て札です。
何だか順番が逆でしたが、最初に立て札を見つけてたら立派な堀は見られませんでした。
迷子レベルが高いのも、無駄ではないという事ですねw


◆歴史◆

肝付氏のお城でした。

現地の説明板に書かれている事を要約すると、
・肝付氏のお城だった
・鎌倉時代から室町時代まで狼煙を上げる所だった
・1580年に肝付氏が薩摩国阿多に移された後も、肝付兼続の正室・阿南御前が残った
・1581年に阿南御前が没してからは、毎年盂蘭盆に「グンジンドンの火とぼし」が行われている
といった感じです。

まぁ、ググっても「肝付氏のお城だった」くらいしか出て来ませんけどあせる
ということで、肝付氏の歴史をザックリ紹介します。


肝付氏の祖先は伴兼行で、968年に薩摩掾に任命されました。
薩摩国司は薩摩守、薩摩介、薩摩大掾、薩摩少掾、薩摩大目、薩摩少目の各1人で構成。
ということで、まぁ国司の中の一人ということでしょうね。
伴兼行は翌969年に薩摩に下向し、鹿児島郡神食村(鹿児島北IC辺り)に屋敷を構えました。

4代目の伴兼貞が大隈国肝属郡弁済使(税を徴収する官吏)となります。
伴兼貞は島津庄の領主・平季基の娘を妻に迎え、平季基のあとを継ぎ島津庄の荘官となります。
元々の領地に平季基の領地を加え、伴兼貞は三州の殆どを領有しました。
伴兼貞は子に領地を分け与え、嫡男の兼俊が高山に移って肝付姓を名乗るようになりました。

・・・長くなりそうなので、あとは終わりの方だけにしますあせる

戦国時代の当主・肝付兼続は、伊作家の島津忠良とはかなり近い関係でした。
肝付兼続は島津忠良の娘(=阿南御前)を娶り、肝付兼続の妹は島津貴久に嫁いでいます。
こうして肝付兼続は、伊作家と対立した豊州家の島津忠親と戦い、勢力を拡大しました。

しかし、日向の伊東義祐が島津豊州家を攻め始めると、島津豊州家は伊作家と和睦しました。
それでも、肝付兼続は島津豊州家への攻撃をやめませんでした。
1560年、島津伊作家の次男・島津義弘が、豊州家の本拠・日向国飫肥防衛に送られています。
ところが、肝付兼続は伊東義祐と同盟を結び、島津貴久と決別しました。
そして、同じ年の廻城をめぐる争いでは、島津貴久の弟・忠将を討ち取りました。
そのため、島津貴久と肝付兼続は全面戦争状態へと突入しました。
肝付兼続の正室・阿南御前は離縁を迫られましたが、そのまま肝付家に留まりました。

1566年に本拠の高山城を島津軍に攻め落とされ、肝付兼続は消息不明となりました。
一説には、隠居城のある志布志付近で自害したとされます。

家督を継いだ肝付良兼は、伊東義祐と連携して一時反撃に転じました。
この連携により島津家は、伊東家と100年近く争った日向国飫肥の地を失っています。
しかし、肝付良兼が1571年に若くして没し、異母弟・肝付兼亮が継ぐと一気に衰えました。

1574年、連戦連敗で重臣が相次いで島津方に降ると、肝付兼亮が母と正室から追放されました。
この時に肝付兼亮の弟・兼護が家督を継ぎ、同時に島津家に降伏しました。
その後、肝付兼護は伊東義祐への内通疑惑を晴らそうと、単独で伊東軍に挑みますが大敗。
領地は本拠の高山城周辺にまで減らされた上、1580年には薩摩国阿多へ移されました。
御幣園城は高山城の支城だったため、この時に廃城になったと思われます。

肝付氏が阿多に移った後も、阿南御前はココに残り翌年没しました。
その供養として、毎年盂蘭盆に「グンジンドンの火とぼし」が行われるようになりました。


所在地:鹿児島県肝属郡肝付町前田

鹿児島県の城跡/なぽのホームページを表示

コメント

非公開コメント

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR