2017/01/04
茶臼山城?/鹿児島県霧島市
茶臼山城はなぜ訪ねたのか、自分でも謎な城跡です。訪問日は2016年12月29日です。

茶臼山城への登城路は、国道504号脇にあるこの標柱から入る林道です。
お城についての案内はたったこれだけ。
ここからどこをどう進めば良いのかは、サッパリわかりません。
多分どこかのサイト様で場所だけ調べたんだと思いますが・・・
そのサイト様を後から確認しようとしても、見つけられませんでした

なので、この城跡に至る道筋は、スタートとゴールと等高線だけで推測しました。
こういう謎解きするような城跡へ行くのも、1つだけならそこそこ刺激的ですw

上の写真に写っている城址標柱です。
お城の名前の下に「*****山一帯」と書かれています。
そのすぐ上にも文字が書かれていたようですが・・・
意図的に削られてしまった感じに見えます。

道の入口から5メートル先には、簡易的な橋が架けられています。
この橋、あまり強度は無さそう・・・
軽とは言え借り物のレンタカーなので、ドキドキしながら渡りました


入口は舗装されていたものの、橋から先は未舗装の林道です。
路面は柔らかく砂利も転がっているので、バイクでここに入るのはNGです。
車も悪路を走行するようなタイブでないと苦労します。
私もぬかるんだ箇所で2回、泥にハマりかけました。
なので、路肩がちょっと広くなった場所に車を停め、早々に徒歩に切り替えました。

林道が大きく右にカーブした後、緩く右→左→右にクネクネします。
2回目のゆる~い右カーブから、左側に見えるこんな感じの所に入って行きます。
事前の想定では、ここから歩ける道があるのかと思いましたが、何もありません。

なんて、文章だと色々と説明するのが難しそうだったので、また絵を描きました。
文章が何となく???だったら、この絵で補って下さい。
などとは言いつつ、相変わらず絵心の無さに胸がズキズキ痛みますw
絵は、上の写真の林道脇へ入って行く所から描いています。

林道脇の広くなっている所は、チョロチョロと水が流れています。
川という程ではなく、雨上がりのような感じです。
その水を避けようとしたのか、石積みを橋のようにしている所が数か所あります。
この上を通って、まずは正面の小さな丘の手前まで進みます。

正面の小さな丘は、上が見えるのですぐに登れてしまいそうです。
高い所へすぅぅぅっと吸い寄せられそうになるのは仕様ですが、逆らって左へ進みます。
すると、小さな丘と丘の間の窪んだ所に出ます。
そのまま真っすぐ進むと城跡の丘の断崖にぶつかるので、ちょっと左へ進みます。
すると、何とかよじ登れそうな竹林があるので、ここを直登します。

登り切った所は、幅5メートル程の細長く削平された感じになっています。
何となくですが、ここは郭の跡のような気がします。
・・・だって、情報ゼロなんですから

ここを竹を掻き分け、倒れた竹を避けながら右に進みます。

すると、今度は岩剥き出しの斜面が現れます。
ここを真っすぐ登ってもいいのですが・・・
※私は真っすぐ登ってしまいましたw
この左脇に、岩をスルーするような通り道っぽいのがあります。
そちらの方が登りやすいです。
・・・と、上から下りる時に見付けました


岩剥き出しの斜面を登り切った所です。
何となく郭っぽく見えますよね?
多分ですが、主郭です。

一番高い所を目指して進みます。
主郭?とは思いますが、削平はかなり甘く、平らにはなっていません。
長い年月の間、風雨にさらされて角が取れたのか、自然のままなのか・・・
多分城跡なのだとは思いますが、ザッ見た感じはこれだけです。
たまにはワイルドな探検ごっこっぽいのも、悪くありませんよね?
◆歴史◆
不明w
全く情報が見つからず、わかりません。
造りが古いので、室町時代初期のお城と思われます。
その頃の周辺の状況をわかる範囲で書くと、
北:溝辺城(溝辺氏)
西:加治木城(加治木氏)
南東:上井城(諏訪氏=のちの上井氏)
です。
周辺には小規模土豪が点在していたんですね。
国道を挟んですぐ北には、日当山城がありました。
こちらは登城を試みたものの、全く別の山に・・・

ググってみると、辛うじて情報ありました。
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『三国名勝図会』の「大隅国・桑原郡 日当山郷・踊郷」をかいつまむと・・・
島津貞久の頃(1318年に薩摩守護職を継ぎ、1363年没)は、中津川勘左衛門が居た
天文のはじめ(1532年~)には本田薫親が支配
1548年に北原兼守が攻略
同年、島津貴久が伊集院忠朗に攻めさせ北原方の兵100人余りを討つ
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という感じです。
ちょっと背景なども書き加えると・・・背後関係や理由やら気になりますよね?
最初の中津川勘左衛門はサッパリわかりません。
点在していた土豪の一人、という事でしょう。
本田薫親は、薩摩守護・島津勝久(薩州家)の家老・本田兼親の子です。
曽於郡の清水城を本拠とし、あちこちに領地を持っていました。
北原兼守は島津貴久と対立する日向の勢力です。
1548年に日当山城を奪いましたが、島津軍に追い払われたという事でしょう。
北原兼守が日当山城を攻めたのは、本田氏の内紛を見ての事と思われます。
同年、本田薫親が同族・本田実親の姫木城を攻めました。
これが島津貴久の怒りを買い、本田薫親は日向へ追放されました。
茶臼山城では何も出て来ませんでしたが、すぐ隣のお城でちょっと出てきました。
隣り合わせのお城どうしで何十年も争った例もありますが・・・
日当山の南西山麓を左右から2つの城で塞いでるので、大体同じかと思います。
所在地:鹿児島県霧島市隼人町東郷
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