2017/01/04
平松城/鹿児島県姶良市
平松城の跡地は重富小学校になっています。訪問日は2015年6月14日です。

小学校が城跡で、当時の石垣が残っているというので訪ねてみました。
ここは小学校の前の道の左手前の角で、民家の前です。
この石垣はお城のものではありませんよね?
前回訪ねたのが梅雨の時期で、雨がザーザー降っています。
つい最近ここを通った時に「来たことあるからいいや♪」で素通りしてしまいました。
その前回が土砂降りだったと覚えていれば、いい天気だったので撮り直したのですが


今度は小学校の正門の左前です。
この石垣は本物ですね!
江戸時代の館らしく、低く積んであります。
門の手前に写っている白い板は、お城の説明板です♪

小学校の正門です。
御仮屋が学校になっている所は他にもあり、そこではよく門をそのまま利用していたりします。
でも、この門の形は御仮屋のものではありませんよね?
・・・自信が無いのでとりあえず撮っておきました

本物だったらラッキー♪という感じです。
※調べてみたら、この門は鹿児島県庁で使用されていたものだそうです。

正門の右手前です。
こちらには城址標柱があります。
本物の石垣で造られた門って、やはり威厳がありますよね


小学校の右手前の角付近です。
前の道がかなり広いですが、堀跡でしょうか?
桜の葉っぱの陰になってしまい、石垣が暗くなってしまいました。
春先だったらとても絵になりそうな風景です。
正門の正面には、かなり詳しい説明板があります。
説明板だけの写真は撮ったのですが、周りの雰囲気も入れたくてまたストビュー貼りました。
お天気いいので、全部ストビューで良かったかもしれませんw
◆歴史◆
1554年、島津義弘により築かれました。
岩剣城を攻め落とした島津貴久は、次男・義弘を城代としました。
しかし、山城の岩剣城が平時にはあまりに不便なため、麓に城を築きました。
1564年、島津義弘が飯野城(宮崎県えびの市)へ移りました
日向の伊東義祐が南へ勢力を拡大しつつあり、1560年には長年の係争地・飫肥を奪われました。
また、その伊東義祐が新たな拠点として城を築き始めたため、その近くの飯野城へ移りました。
島津軍は伊東氏の新城を完成前に破壊しようとしましたが、撃退されました。
島津義弘は、豊臣秀吉に制圧される1587年まで飯野城を居城としました。
島津義弘が去った後の平松城
1600年、島津義弘は関ケ原の戦から帰還した後、しばらく平松城に滞在しました。
島津義弘が去った後は、その長女・千鶴が晩年を過ごしたとされます。
千鶴は島津朝久(豊州家)に嫁いでいましたが、朝鮮出兵中に病死してしまいました。
島津義弘の屋敷に住んでいたため、御屋地様と呼ばれるようになりました。
・・・という話が、平松城の説明ではあちこちで書かれています。
現地の説明板にも書かれていましたが、御屋地様でググると帖佐館の事しか書かれていません。
平松城→帖佐館と、父・島津義弘の去った館を貰い受けたとしても不自然ではありませんが。
1605年、帖佐館から加治木館へ移るまでの間にも、島津義弘は平松城に滞在しました。
1737年、薩摩藩主の弟・島津忠紀が重富郷の領主となり、平松城跡に館を築きました。
これらの事から、平松城は島津氏の施設として常に使用されていたかもしれません。
1888年、平松小学校が築かれました。
何度も名前が変わりましたが、現在は姶良市立重富小学校となっています。
所在地:鹿児島県姶良市平松
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