2013/05/16
梶原氏館/東京都八王子市
八王子って館跡が多いですね。次は梶原氏館です。

▲八幡神社の前
梶原氏館跡は八幡神社となっています。神社の前には長~い参道となっており、その突き当たりが神社です。段差のある地形がそれっぽくていいですね!

▲八幡神社社殿
正面の階段を上がると、すぐ真正面に社殿があります。小さいながら綺麗に整備されています。

▲八幡神社の東にある小さな祠群
社殿のすぐ東(右側)には、小さな祠がいくつかあります。館はどの辺にあったんだろう?とウロウロ。ここは削平されておらず、住居を建てるにはちと辛そうな感じです。

▲社殿の西に怪しい道
社殿に戻り、反対側に目をやると・・・


▲うっすらと土塁・空堀?
藪の中に土が数十cm、通路沿いに盛られていました。その土盛りの脇は何となく溝の跡っぽい感じ。空堀と土塁の跡でしょうか?せっかく来たので、自分ではそのつもりで勝手に得した気分に浸りました^^
◆歴史◆
梶原氏の館は、梶原景時の頃に八幡神社の裏の丘にありました。当地は元々は横山氏の所領でしたが、景時の母親が梶原氏に嫁いだ時に譲られたようです。
そして、1191年に鎌倉の鶴岡八幡宮を立て直す時に、古い御神体を景時が譲り受けました。景時は鶴岡八幡宮と地形が似ている当地を選び、八幡宮を築いて祀ったそうです。
景時は源頼朝の重臣中の重臣です。彼と頼朝との出会いは1180年の石橋山の戦いの時です。
この戦いで頼朝はコテンパンに大敗し、山中の洞窟に隠れていました。当時平家方として戦った景時は、隠れていた頼朝を発見しました。しかし、景時はわざと頼朝を見つけていないフリをして逃がしました。
頼朝は安房に落ち延びて再起。その後、景時は土肥実平を通じて頼朝に仕えるようになりました。
景時は当時の武士としては珍しく教養があり、頼朝から絶大な信頼を得ました。文武両道の武士だったんですね。ただ・・・協調性は無かったようで、色々といざこざを起こしたようです。
有名なのは源義経との対立。あまりに意見が合わないので、平家討伐中に配置換えされた程です。
鎌倉幕府成立後も他の重臣とは反りが合わなかったようで・・・畠山重忠や夜須行宗の讒言をして周囲からの反発を買いまくっていました。
そして1200年、結城朝光に対する讒言が発端となり、重臣一同が直訴。2代将軍・源頼家も放置できず、連判状を景時に下げ渡し、景時は相模に退きました。その後、武田有義を将軍に立てようと上洛する計画が露見。駿河国狐崎で討ち取られました。
狐ヶ崎には遠い昔に住んでたことがあります。そんな歴史の大事件があったなんて知りませんでした^^;
所在地:東京都八王子市元八王子町3丁目
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