2016/12/21
河津城/静岡県河津町
河津城は、超早咲きのカワヅザクラで有名な河津の街を見下ろす山城です。訪問日は2014年3月21日です。

河津城は駅のすぐ脇にある山城です。駅前が随分とエキゾチックな風景に見えますが、ソテツだけで南国っぽく見えますね!伊豆が暖かいとはいっても、東京と殆ど変わりませんけどw・・・お城は真ん中の一番高い山にありました


登城口は、駅のすぐ東にあります。入口にはちゃんと案内も出ています。事前に地図見てたら北側から楽に登れると思っていましたが・・・そちらは民間の住宅地で、勝手に立ち入ることは出来ません。城主様の居館など、お城の主要部はそこら辺なんだろうなとは思いますが。

さて、案内からしばらくは舗装道ですが、1件の民家の前で途切れます。そこにクルマ1台位は停められたような、どうだったか・・・バイクだったので、あんまり気にしてませんでした


舗装道の終点からは、歩きでの登城となります。

登城路はよく整備され、草を掻き分けるような所はありません。

ラストスパートは階段ジゴクですwこうやって見ると、本来の登城路には見えません。後世に付けられた道のように見えます。

そんな階段の先に見える冠木門。これで踊り場だったら涙が出ましたが・・・

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城跡に到着!

端に寄って全体が見えるように撮ってみました。そんなに広いお城ではないですね・・・ここは物見台のような気がします。でも、城跡として見られるのはココだけ。戦国時代のお城のように、堀や土塁、虎口などの凝ったものはありませんでした。

でも、この風景見ると、ここにお城があった理由がよくわかる気がします。
◆歴史◆
蔭山氏のお城でした。
蔭山氏は1438年に永享の乱を起こした足利持氏の末っ子・広氏を祖とします。乳母に連れられ伊豆に落ち延びた広氏(当時3歳)は、土豪の蔭山氏に育てられました。やがて蔭山氏は広氏を婿養子として、広氏が蔭山氏の当主となりました。河津城は、この蔭山広氏により築かれたと考えられています。
北条早雲に攻められ降伏しました。
北条早雲が伊豆へ侵攻した際、蔭山氏は抵抗しました。そのため河津城が攻められました。詳しい年は不明ですが、1493~98年の間ですね。この時に北条軍は、河津城を火攻めにしました。城方はこの火を消すため、大量の兵糧米を流したそうです。しかし、迫りくる炎を消すことは出来ず、落城しました。以後、蔭山氏は後北条氏の家臣となりました。
1590年、廃城となりました。
豊臣秀吉が後北条氏を攻め、蔭山氏広は戦わずに降伏しました。祖が広氏、降伏したのは子孫の氏広です。主家の後北条氏が滅ぼされると、蔭山氏広は修善寺へ移ったとされます。
蔭山氏広の妻の連れ子だった義理の娘・万は、ここで徳川家康の側室となりました。万の生んだ子が初代紀伊藩主・徳川頼宣と初代水戸藩主・徳川頼房です。
河津といえば、河津氏
工藤氏や伊東氏を調べた中で、河津氏の名前がありました。河津氏は平安末期、工藤氏や伊東氏と親兄弟の間柄でした。
しっかり書くとややこしくなるのですが・・・工藤祐隆の子には、嫡男の系統と、後妻の娘の子の系統とがありました。嫡男は早世したため後妻の娘の子が工藤氏の嫡流となり、伊東の地を継ぎました。一方、嫡男の子は庶流となり、河津の地を継ぎました。
両系統は平安時代末期に争い、後妻系統の工藤祐経が、嫡男系統の暗殺を企てました。この暗殺事件では、たぶん大本命だった伊東祐親ではなく、その嫡男・河津祐泰が死にました。泥沼の争いは源平の争いでも敵味方に分かれ、後妻系統が源氏方につき勝利しました。しかし、1193年、富士の巻狩りで河津祐泰の遺児・曾我兄弟が工藤祐経を殺害。源頼朝は許しましたが、工藤祐経の子が許さず、曾我兄弟は殺されました。河津氏の血統は、ここで絶えます。
・・・消化不良なくらいザックリです(´・ω・`)
その後、伊東の地は嫡男流の伊東祐清の子・伊東祐光に与えられました。伊東祐清は源平の戦いでは平家方でしたが、かつて源頼朝の命を助けた事がありました。詳しくは省きますが・・・ググって下さいネw
その後、伊東氏は足利尊氏に従って活躍し、日向を与えられます。しかし、なかなか任地へ赴かない伊東氏を、足利尊氏は無理やり日向へ行かせました。伊東氏は一族に伊東荘を預けたのですが、やっぱり横領されて争いになります。この争いは足利尊氏・義直の兄弟喧嘩に便乗しましたが・・・
最終的には伊東氏側が勝利し、伊東荘は・・・室町幕府に没収されましたw陰山氏が伊東荘の一部である河津に入ったのは、その後の事です。なんだか順番が逆になってしまいました

所在地:静岡県賀茂郡河津町笹原
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