2016/12/04
宇佐美城/静岡県伊東市
宇佐美城は海岸近くの小さな丘に築かれていました。訪問日は2014年3月21日です。

この日最初に訪ねたのが宇佐美城でした。夜明け前に着いてしまい、空が明るくなるのを待って登城しました。城跡近くにはバイクを停める所が無かったので、海沿いの無料駐車場に停めました。空がだんだん明るくなった頃合いに、海側から撮ったのがこの写真です。この時には気づいていませんでしたが、黄色く囲んだ所に城址碑が見えています。

上の写真で小さく写っていた城址碑です。先に目に付いたのは、左側の「宇佐美城山駐車場」の看板ですが。なんか石碑あるなと思って見たら「宇佐美祐茂壘趾」と彫られています。

駐車場は1つの平面ではなく、3段あったと記憶しています。・・・1年8か月ちょい前の事なので、ちょっとうる覚えです


定期的に人が通っているようで、道の部分だけ草がありません。

一度折れて登り切ると、かなり広い平地に出ました。一番高い所なので、ここが城跡のようです。土塁や堀、虎口といったものは明確には見当たらず、ただの丸い平地になっています。ここはかつて大学の寮があったそうで、その建設の時に破壊されてしまったようです。

北側にはアスファルトで舗装された出入口があります。地図にうっすらと描かれている道だと思われます。めんどくさくてこちら側は通らなかったので


城跡から見た相模湾です。かつてはもっと見晴らしが良かったと思われます。もしかしたら水軍の基地があったのかもしれませんね。
◆歴史◆
宇佐美氏のお城でした。
宇佐美氏は工藤一族で、伊東氏から派生しました。祖は伊東祐継の三男・宇佐美祐茂で、源平合戦の頃の人物です。どんな関係なのか調べていたらだんだんとややこしくなり・・・文章で読んでもサッパリなので、図にしてみました。

文章で理解しろという方が無理な位にグチャグチャですwww・・・ということで、宇佐美氏の祖・祐茂が小っちゃくなっちゃいました

伊東氏は伊東祐隆の後妻の娘の家系が嫡流となり、源頼朝方となっています。それに対し、本来の嫡流だった伊東祐家の家系が庶流扱いとなり、平家方となっています。宇佐美祐茂は1180年の石橋山合戦から源頼朝に従い、25功臣の1人に数えられています。
室町時代はじめ頃、宇佐美氏は足利直義の執事・上杉憲顕に従っていました。上杉憲顕は後に初代関東管領となり、越後・上野・武蔵・安房の守護となります。この関係で宇佐美氏の一部が越後へ移り、子孫に宇佐美定満らを輩出します。
宇佐美氏は北条早雲の頃まで当地を本拠としたようです。
伊勢新九郎(=北条早雲)は1493年、堀越御所を襲って伊豆へ進出しました。この時、宇佐美貞興が堀越御所での戦いで戦死したという伝承があります。追放された茶々丸は失地回復を目指して抵抗し、工藤一族もこれに従いました。工藤一族の長は狩野道一で、伊東氏や宇佐美氏も一緒に戦っていました。しかし、1495年には伊東祐遠が伊勢方に寝返り、1498年には狩野城が陥落しました。この間の宇佐美氏の動向は不明ですが・・・宇佐美城近くにある宇佐美氏の墓とされる石塔は、この時代までしか無いそうです。見てないんですけどね

後北条氏時代の宇佐美城
主を失った宇佐美城ですが、その後も城番が置かれていたようです。城跡に大学の寮が築かれるまでは、堀や土塁などが良好に残っていたそうです。それがどんなものだったのかは?ですが・・・そんな説があるのですから、戦国時代っぽかったのかもしれません

所在地:静岡県伊東市宇佐美
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