2016/12/03
狩野城/静岡県伊豆市
##狩野城は狩野川と柿木川の合流点脇にあった山城です。訪問日は2014年3月21日です。

東を走る国道脇に、こんな立派な看板があります。これなら迷い、、、ませんよね?w

看板の矢印に従って走ると、お城専用の駐車場があります。停める所に苦労しないって、本当に助かります





拡大表示
一番奥にある案内図です。もちろんパクります!駐車場が城跡の北側にあるので、案内図は南北が逆になっています。東に狩野川、北に柿木川がありますが、この図では南側に川が描かれています。お城は東南北を天然の堀に囲まれた要塞だったんですね!

上の図を見ながら「どっちが楽かな?」で右(西側)のルートから登りました。登り切った所がちょっとした広場になっていて、その先にこの堀切があります。

さらにその先には二重堀があります。狩野城は北条早雲に攻められていますが、その時代からあったのでしょうか?駐車場脇にあった長~い年表を見直してみますが、やはり城としてはそこまでのようです。戦国時代後期のような造りに見えますけど・・・

厳重な堀を越えた所にあるのが本郭です。かなり大規模なお城ですが、思わず「えっ?」と言いたくなる位に本郭は狭いです。道側に低い土塁があるだけで、本郭周辺の造りも特に凝った感じではありません。深~い堀切以外は、やっぱり古い感じの造りになっています。

本郭からさらに東へ進むと、また堀切が現れます。本郭自体はそんなに凝っていませんが、両側をガッツリ堀切で断ち切っています。

その先にある中郭です。こちらの方が広くて「メインの曲輪は中郭じゃね?」なんて思いました。本郭は城主様の居場所で、中郭は大勢人が集まる場所だったのでしょうか。何かの小屋があり、その脇には真っ二つに割れた説明板が立て掛けてありました。

小屋の前から見た中郭です。写真がアレで分かりづらいですが本郭の5倍位の広さがあり、高い土塁もあります。

中郭の東側にも、こんな感じのカッチョイイ堀切があります。虎口っぽいのは見られなかったので、やっぱり古い時代の造りのようです。時代を追って見ると、山城がどんな風に発展したのかわかるかもしれませんね。
◆歴史◆
狩野氏の本拠でした。
駐車場脇にあった年表をもとにしてみました。
狩野氏は藤原南家の系統で、藤原為憲を祖とします。
藤原為憲は平安時代の人物で、940年の承平天慶の乱で藤原純友とともに活躍しました。この時の功により従五位下木工助に叙任され、工藤姓を名乗るようになりました。
1050年頃には工藤維景が狩野郷に住み、狩野姓を名乗るようになります。
このほか、工藤氏からは伊東氏や宇佐美氏なども派生しています。狩野城を築いたのは1100年頃で、築城者は工藤維次と考えられています。
1180年、狩野介が自害しました。
平安時代末頃、狩野介の工藤茂光は伊豆国の武士を束ねる棟梁でした。当時、伊豆には平家に敗れて流罪となった源頼朝が居ました。源頼朝は常に平家方の武士が見張っていました・・・が!
1180年、源頼朝は工藤茂光・親光父子を従え挙兵し、石橋山で平家方と合戦となりました。この時に大庭景親・伊東祐親らに敗れ、工藤茂光は自害しました。子の工藤親光も源頼朝に従いましたが、1189年の奥州征伐で戦死しています。・・・が、工藤氏(狩野氏)は続きます。
最後の城主は狩野道一です。
1493年、伊勢新九郎が堀越御所を襲って茶々丸を追放しました。これを機に伊勢新九郎は韮山城へ移り、伊豆支配に乗り出しました。狩野道一は茶々丸に従っており、伊勢新九郎に抵抗しました。工藤一族の結束も伊勢新九郎により切り崩され、狩野道一は劣勢を強いられます。
1496年に伊勢軍により狩野城は包囲されましたが、この時は撃退したようです。しかし、1497年12月にはついに降伏し、狩野城は開城されました。その後の狩野道一の消息は不明ですが、一族は小田原に移されて戦国時代まで続きました。
これ以降、狩野城は歴史には登場しなくなります。
所在地:静岡県伊豆市本柿木
静岡県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント