2016/11/30
修善寺城/静岡県伊豆市
修善寺城はとてもシンボリックな山にありました。訪問日は2014年3月21日です。

この写真は訪問した日の翌朝、南西から撮ったものです。本当は電線が山上のアンテナと被っていましたが、mspaintで地道に修正しました。記憶の中の風景は、まさにこんな感じです


登城口の城山神社です。記憶では、ここまではバイクで来れたと思います。この日は順調過ぎたのか、陽がまだ高かったので予定を前倒しでココに来ました。ということで、この日10か所目の山城です


登城路はこんな感じで、とても整備されていました。とは言え、さすがに10か所目ともなると足が上がらず・・・疲れで膝曲がりませんでしたし、「なぜ登る?」なんて自問自答してました。

そんな足でしたが、神社からここまで17分で登りました。・・・ぜんぜん参考になりませんね


確かにココが城跡なのですが、堀や土塁、虎口などは見当たりませんでした。見つけられなかっただけかもしれませんが・・・それでも足を棒にして登ったので、何かそれらしい物無いかと探したらありました



山上の曲輪の一角には、小さな祠と石碑が!彫られた文字が浅く、光の加減で現地では文字を読み取れませんでした。そのため、とりあえず写真に撮り加工して読むと「城山公園」と彫られていました。せめて「修善寺城跡」にして欲しかったですね・・・
◆歴史◆
畠山国清が築き、立て籠もりました。
畠山国清は元は関東の武士で、足利尊氏に従い活躍して河内や紀伊の守護となりました。後に摂津の守護も兼ねるようになり、一族は室町幕府で要職を務めることとなります。そんな畠山国清がなぜ伊豆で籠城したのでしょうか?
畠山国清が伊豆守護になるまでの経緯
室町時代初期はまだ幕府の基盤が弱く、朝廷と対立して南北朝時代とも呼ばれていました。畠山国清はもちろん幕府方でしたが・・・その幕府内でも、初代将軍・足利尊氏とその弟・足利直義が対立し争っていました。これは観応の擾乱と呼ばれ、畠山国清は足利直義に味方していました。しかし、やがて足利直義が敗れると降伏し、再び足利尊氏に従うようになりました。足利尊氏が関東支配の要として次男・足利基氏を送ると、畠山国清は関東執事となりました。この時に、畠山国清は伊豆・武蔵の守護も兼ね、足利基氏を補佐して南朝方と戦いました。
畠山国清が幕府で失脚しました
1358年に足利尊氏が没すると、状況が変わり始めました。1359年に2代将軍・足利義詮の要請で畿内に出兵して南朝方と戦いました。この時、畠山国清は細川清氏とともに、陣中で対立した仁木義長を失脚させました。しかしその翌年、組んでいた細川清氏が足利義詮と対立し、ともに失脚しました。
足利義詮は弟・足利基氏とともに若年期に補佐された上杉憲顕を後任の関東管領にしました。上杉憲顕は山内上杉家の祖で、後世この家系が代々関東管領を継ぐようになります。畠山国清は守護を務めていた伊豆国に逃れ、修善寺城を築いて抵抗姿勢を示しました。
1361年、畠山国清が討伐されました。
畠山国清はかつて組んだ南朝方で、伊豆の国衆を束ねる狩野氏を味方にしようとしました。当時の狩野氏をはじめとする工藤一族は、北朝方で駿河守護の今川氏と争っていたからです。しかし、狩野氏らの協力を得ることは出来ず、畠山国清は修善寺城に立て籠もりました。鎌倉公方・足利基氏は関東の軍勢を引き連れて、修善寺城を包囲。一族が籠城した三津城や金山城も陥落し、畠山国清は降伏しました。以後、畠山国清の消息はわからなくなり、一族も一時没落しました。
その後の畠山氏
1366年、貞治の変で畠山国清を失脚させたグループが失脚し、畠山氏が幕政に復帰しました。この時に一族の長となったのが畠山国清の弟・義深で、以後はこちらの系統が嫡流となります。畠山義深は失脚した斯波高経が居た越前守護となります。以後、能登、越中、河内、和泉、紀伊、伊豆の守護も兼ね、畠山氏繁栄の礎を築きました。
畠山国清の嫡男・義清も許されましたが、一御家人として将軍・足利義満に近侍しました。しかし、父の弟の系統が幕府中枢の要職を占める状況に、強いストレスを感じていたようです。1405年に発狂したため、所領のあった紀伊へ追放されました。こちらの系統の子孫は能登国西谷内を所領とし、西谷内畠山氏として存続しました。
所在地:静岡県伊豆市小立野
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