2016/11/19
田代砦/静岡県伊豆市
伊豆には田代城が2つありますが、こちらは修善寺にある砦の方です。訪問日は2014年3月22日です。

ここが入口です。説明板と石碑が無ければ、民家っぽくて入れません。こうして立っている場所で回れ右をすると、ケータイのアンテナがあります。どちらかというと、そっちの方が遠くから見えて目印になります


ずんずん進んで行くと、やがて山の中へ入って行く道が現れます。もちろん、こちらへ入って行きます。

道はこんな感じで、ちゃんと草が刈られています。定期的に地元の方が通っているという事でしょうか。

城塁を右に見ながらせせらぎの先を登ります。登城路は狭く、常に城内から横矢が掛かっています。小さいながらちゃんと考えられてるな~なんて歩いていると、いきなり現れます。私の大好きな堀切です


堀切の脇に上がる道があり、その上はいきなりですが主郭です。台地先端部なので、昔は反対側から上がる道があったのでしょうか。ただ、主郭の真下が居館跡とされるので、ちょっと構造が?です。背後の郭からココを1点集中で守ろう!ということだったのでしょうか。

主郭の堀切側には、こんな感じで低い土塁があります。

元の道に戻ってさらに登ると、再び堀切が現れます。下が二郭で上が三郭なのですが・・・主郭ほど草が刈られておらず、中に入るのが憚られました。入ったところで大したものも見られないだろ?っていうのもありましたけど。

道は更に山奥へと続いています。普段は地元の方が山菜採りでもされているのでしょうか。それとも、昔はお城へと通じる道だったのでしょうか。ここから先へは進まなかったので、想像するしかありません

◆歴史◆(ほぼ妄想です)
平安時代末から鎌倉時代初め頃の田代信綱の城でした。
色んな所で書かれているのは、大体以下の通り。田代信綱は伊豆国司・藤原為綱の子で、母方の祖父・工藤茂光に育てられました。平家討伐の功により田代の地を与えられ、後に函南の田代へ移りました。承久の乱でも活躍し、和泉国大鳥荘にも所領が与えられました。
・・・このままサラッとコピペで終われないのが、歴オタのサガですw
田代信綱の父「為綱」は何者だったのでしょうか?
根拠とするには怪しいWikipediaですが・・・「伊豆国」にある国司の一覧に「藤原為綱」の名がありません。色々ググっていると、伊豆国司の「源為綱」が父親と書かれている所もあります。両者の系譜に繋がりは無さそうですが、どちらだったのでしょうか・・・?
伊豆国司は1132年から1158年まで藤原氏が務めた後、平家が1年だけ入りました。その後、1182年まで源氏が続きます。
『平家物語』では田代信綱を「伊豆国の先国司中納言為綱朝臣の子」と紹介しています。藤原氏なのか源氏なのかは記されておらず、ここいらが混乱の元なのかもしれませんね。ということで、1132年以降に中納言になった伊豆国司をググって調べてみました。時間の使い方がちょっとアレですが、?な所に力を注ぐのがオタというものです。
ググっても出てこない人物の方が多かったのですが、ヒットしたのは藤原経房だけでした。
藤原経房が伊豆国司だったのは1151年から7年間で、任地には赴かない遥任でした。その後は平清盛との間に知遇を得て、朝廷内でトントン拍子で出世しました。藤原経房は吉田経房という名で知られ、1181年以降は源頼朝とツーカーでした。平家が都落ちした1183年以降、源頼朝が朝廷に圧力を掛けてさらに昇進。1183年に従三位、1184年に権中納言、そして1190年には従二位権大納言となっています。源頼朝が朝廷や院へ行う要請は、殆どが藤原経房を通じて行われました。主なものとしては守護・地頭の設置や、源義経の追討などです。
田代信綱の育ての親で外祖父・工藤茂光について
田代信綱は、母方の祖父・工藤茂光により育てられています。工藤茂光は狩野氏の祖とされ、伊豆国の武士を取り纏める有力者でした。伊豆大島で暴れた源為朝を、1170年に討伐した事で有名な武将です。この討伐の前に上洛しており、院宣を得て伊豆大島へ攻め寄せています。上方との繋がりがあったんですね!
田代信綱は、1180年の石橋山合戦から1221年の承久の乱で戦功を挙げています。1180年に20歳前後だったとすると、藤原経房が伊豆国司だった頃に生まれた可能性大ですね!工藤茂光はその石橋山合戦の中の戦いで敗れ、一族を逃がすために自害しています。
田代信綱の事績
やっと本人登場です!
・・・長くなったので止めましょうか?w
1180年、源頼朝が反平家の兵を挙げた石橋山合戦から参戦しています。その後の源平合戦では源義経に従い、一ノ谷や屋島で活躍しました。壇之浦合戦の後、源頼朝から「御家人達へ義経に従わないよう伝える役」を命じられています。平家滅亡後は、戦功として狩野荘田代郷の地頭職を得ました。それ以前から田代姓を名乗っていたので、既にココで暮らしていたかもしれません。この時に函南町の田代という所も所領を得ており、後にそちらへ移りました。1221年にあった承久の乱では幕府方として功を挙げ、和泉国大鳥の地頭職を得ました。
子孫は和泉国の領主として存続し、戦国時代には摂津有馬氏の家臣となっています。主君・有馬氏が大坂の陣の功で大幅な加増を受けると、ともに筑後国久留米へ移っています。
所在地:静岡県伊豆市田代
静岡県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント