2016/10/30
長浜城/静岡県沼津市
長浜城は伊豆半島北西の出っ張りの付け根にありました。訪問日は2014年3月22日です。

長浜城は、伊豆半島西岸の付け根にある入江を利用した水軍の城です。海が入り組んだ地形を利用した天然の良港で、水深もあり大きな船も停泊出来ました。現在は南側が道路建設により削られていて、往時の大手道は無いのだとか。登城口は釣り堀の脇にあり、長浜城見学者も駐車して良いと書かれていました。その駐車場に、写真の通り充実した説明板群があります


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いいのがあったので、早速パクリます


説明板群のすぐ奥にある登城口です。登城路は絶壁の脇に付けられた階段ですw南側の大手口を削っちゃったということは、それまで誰も登らなかったという事でしょうか。遺構がいい状態で残っているのは、そのためかもしれませんね。

階段を登り切った所にいきなり堀切があります。この左側が4曲輪、右側が3曲輪です。

4曲輪です。かなり狭いです。各曲輪や遺構には、とても詳しい説明板があります。国の史跡ともなると扱いが違いますね!

4曲輪から3曲輪を見た所です。堀切を挟んで高い城塁が壁のようにそそり立ちます。図を見た感じでは麓から4曲輪に上がる道は見えません。しかし、この光景を見る限り、下からココを通って3曲輪へ入るのが順路のように感じます。

3曲輪脇の道です。先に見えるのは2曲輪で、右脇が3曲輪です。整備される前は鬱蒼とした山林だったのでしょうね。木々が伐採されとても見やすくなったものと思います。それが遺構の保存にどう影響するかはわかりませんが・・・個人的には見やすいのはとても嬉しいです。

3曲輪には神社があります。見た感じは近年綺麗にされた感じがします。城跡にはよく神社や祠があります。きっと廃城になった後で何かの神様をお祀りしたのでしょうが・・・誰も足を踏み入れなくなって荒れ果てていたものが、城跡を整備したことにより発見。それでまた社を綺麗に建て直した・・・なんて、勝手に色々想像しちゃいますw

3曲輪と2曲輪の間の堀切です。発掘して判明した形が崩れないよう固めたように見えます。幾重にも重ねられた防御遺構が、この城の重要度の高さを物語っているように見えます。

2曲輪です。図で見る限り、ここが城内で一番広い曲輪だったようです。柱の跡に杭が打たれていますが、ここに建物があると向こう側の1曲輪が見えませんね。ということは、ここにお城の主要な建物があったとみるべきでしょうか。

2曲輪と1曲輪の間の堀切です。発掘した時の状態をセメントで固めたのでしょうか。見せ方にも色々あるものですね。説明板も充実しており、とても楽しい城跡です。草木しか無い山城も、それはそれである意味楽しいですけどw

1曲輪から駿河湾を見た所です。城内で一番高い所にあり、見張り台があったものと思います。ここから武田軍の三枚橋城も見えたらしいですが・・・往時は今のように人工物が無かったので、簡単に見分けられたのでしょうね。そうでなければ、現代人よりも視力が良かったということかもしれませんが。

上の写真でも良い船着き場に見えますが、パノラマだとその様子がよくわかります。現在でも絶好の船溜まりのようで、沢山のヨットが目の前に見えます。往時は全長30m程の安宅船がズラリと並んでいたのでしょうか・・・ついつい妄想癖がwww
◆歴史◆
1579年頃に築かれたと考えられています。
築城の明確な時期は不明です。武田勝頼が三枚橋城を築いた1579年に、その武田軍に備えるため北条軍により整備されました。それまでは、北条氏に仕える大川氏の城があったようななかったような・・・長浜城を整備した北条氏政は、紀伊の海賊・梶原景宗を城将にして武田水軍に備えました。
駿河湾で武田水軍と衝突しました。
1580年3月15日に、重須沖で北条水軍の安宅船10艘と武田水軍の関船5艘が戦いました。重須ってどこ?とググってみると、長浜城のすぐ近くでした。勝敗の程は定かではありませんが、陽が暮れると双方退却したそうです。
1581年にも久龍津(やはり長浜城の近所)で両軍が衝突しました。この時は武田水軍が北条水軍の船を3艘沈めたと、武田側の記録にはあります。
1590年、豊臣秀吉が北条氏政を討伐しました。
北条軍は山中城や韮山城に兵力を集中させましたが、長浜城にも守備兵を置きました。この時に大川兵庫も長浜城に入りましたが、戦わずして城兵は逃げてしまいました。その後の長浜城については記録が無く、廃城になったものと思われます。
1988年、海賊城が良い状態で残っているとして、国の史跡に指定されました。
所在地:静岡県沼津市内浦長浜
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