2016/10/26
仁田館/静岡県函南町
仁田館は北側の堀と土塁が残っています。訪問日は2014年9月20日です。

仁田館は仁田忠常の館で、現在でも子孫の方が暮らしているそうです。・・・平安時代からずっと、というのがとても凄いですね


門をくぐると、向かって右側にこのお堂があります。こちら側にクルマを停めるようになっていますが、仁田館はこの裏側です。

上のお堂からさらに奥に進むと、木の立て札がありました。何かあるな~で書かれた文を読むと、仁田館の説明板でした。一番最後にはご子孫様と思しきお名前が書かれています。

その文章は「この堀は~」で始まります。これ読むまで気付きませんでした

◆歴史◆
仁田氏の館です。
仁田氏は『東鑑』や『平家物語』に仁田忠常が登場します。これらは平安時代に書かれたものです。仁田忠常は剛勇の武士で、源頼朝には挙兵の時から従った人物です。平家との戦では源範頼の陣中にあって活躍し、奥州でも功を挙げました。1187年に病に倒れた際は源頼朝自ら見舞いに訪ねており、とても信頼されていました。
源頼朝亡き後はその子で2代将軍・源頼家に仕えました。源頼家は1202年に父の死により家督を継ぎ、将軍となりました。すると、それまでの合議の慣習を破って、独裁政治を志向するようになりました。母・北条政子とも仲が悪かったようで・・・
翌1203年、源頼家が病に倒れると、北条氏側が先手を打ちました。源頼家は病死したと都の朝廷に使者を送っています。また、北条氏と対立していた源頼家の乳母父・比企能員の一族を滅ぼしました。仁田忠常は北条時政に命じられて、比企一族討伐に参加しています。
この北条時政がまた超の付くクセ者です。比企一族討伐の恩賞が与えられることとなり、仁田忠常は北条時政の館を訪ねました。しかし、この時に仁田忠常の弟らの帰宅がかなり遅かったようで・・・この動きが不穏だと謀反の疑いをかけられ、仁田忠常は粛清されました。
北条時政は後に、病から回復した源頼家を修善寺に幽閉して殺害。さらに幕府建立の功臣らを粛清し、やがて鎌倉幕府のドンとなって行きます。
所在地:静岡県田方郡函南町仁田
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