2013/05/11
片倉城/東京都八王子市
片倉城は、南北を川に挟まれた舌状台地に築かれていました。すぐ脇を横浜と川越を結ぶ国道16号が通り、今でも交通の要衝です。
JR片倉駅・京王片倉駅からも徒歩圏内で、交通の便がとても良いです。

▲駐車場入口
「片倉駅入口」交差点から30mほど北に、駐車場の入口があります。写真の通り、看板は目立たないので注意が必要です。

▲平成26年3月完成予定の駐車場
駐車場は噂どおりの狭さで、クルマ4台が停まっていて一杯でした。バイクなら端に停めるスペースがありました。奥には綺麗に整地された区画があり、何だろうと思って見てみると・・・平成26年3月完成予定の駐車場でした。あと10ヶ月ですねwこれ以上どう手を加えるのか?というぐらい綺麗でしたけど。

▲神社と城跡への分かれ道
片倉城跡は公園となっていて、人はかなり居ました。駐車場から入ってすぐの所に池があり、そこを過ぎると斜面が迫っています。神社へ行くか、城跡へ行くか・・・

▲住吉神社
もちろん「城跡」を選択して右へ進んだのですが、住吉神社に辿り着きましたw住吉神社は本丸の北隣りにあり、腰郭のような感じです。

▲説明板
神社の脇には、東京都教育委員会様による説明板がありましたヽ(´ー`)ノ二の丸にもあったような気がしますが、そちらはだいぶ色褪せていました。

▲縄張図(拡大)
説明板の隣にあった縄張図ですが・・・かなりボコボコだったのと、南北が逆だったのでかなり手を加えた上で書き込みました。現地では南向きに設置されているので、南が上になっています。

▲本丸
住吉神社からちょっと回り込む感じで登ると本丸に出ました。急斜面を登ったのが嘘じゃないかと思える位に平坦な広場となっています。

▲本丸と二の丸の間にある堀切
本丸と二の丸の間には幅15m、深さ3mほどの堀切があります。この堀切、真ん中で屈曲していています。片方の端から見た時、反対側の端が見えませんでした。

▲二の丸
本丸から堀切を挟んで二の丸があります。こちらは本丸の何倍もの広さがあります。かなり規模の大きなお城だったんですね!

▲土塁
本丸、二の丸とも所々に土塁が見受けられました。写真は二の丸の南西側の土塁です。土塁はヤブ化していて、中の様子はわかりませんでした。

▲二の丸の西側にある空堀(堀切?)
二の丸の西の端は、かなり大規模な空堀で区切られています。幅20m、深さは3~4m程です。勾配が緩いので、往時はもっと深かったのではないでしょうか。二の丸の西にも平坦な土地が続いています。お城の規模から、三の丸があったのではないかという説が濃厚です。
◆歴史◆
かなりはっきりとした城跡ですが、築城年代や築城者については不明確です。八王子は元々は関東七党の横山党の本拠地でした。その頃に片倉城があったかどうかは不明です。
1213年に和田合戦があり、横山党は和田義盛に味方しましたが、敗れて所領を没収されました。その後八王子の領主となったのが大江広元でした。しかし、大江氏は次の代で北条家に逆らったため滅ぼされ、庶流の長井氏が跡を継ぎました。
長井氏は戦国時代は扇谷上杉氏の配下となりました。片倉城は縄張りや立地などが深大寺城とよく似ていると言われています。その深大寺城が築かれたのが1520年頃、後北条氏の武蔵侵出に備えたものでした。そのため、扇谷上杉氏の命により、八王子の領主・長井氏に同時期に築かれたと考えられています。
しかし、史料に「片倉城」の名が出てこないため、正確な所は不明です。史料に登場する長井氏の城としては「椚田塁」があります。片倉城だという説がある一方で、初沢城を指すのではないかという説もあります。どちらも長井氏の城ではありますがw
1546年以後、八王子が後北条氏領となってから、北条氏照による改修があったようです。1568年に武田信玄が三国同盟を破棄すると、氏照は予想侵攻ルートに当たる城を整備したのです。片倉城の屈折した堀切や二の丸南東にある馬出しなどがその時の名残とする説が有力です。
武田信玄は翌年、小田原城を攻めました。本隊は碓氷峠を越えて北から、別働隊は小仏峠を越えて南から攻めて来ました。最初に標的にされたのが滝山城で、この時の戦いで三の丸まで攻め落とされたそうです。
そこから南下して小田原城へ向かい、三増峠で激しい戦いがありました。片倉城は滝山城から三増峠に向かうルート上にあるのですが・・・この時に戦いがあったのかどうか不明です。
その後、1590年に豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされ、この時に廃城になったとみられます。時は下って太平洋戦争末期には、片倉城跡に高射砲が設置されていました。戦となれば、やはり地の利があったんですね。
所在地:東京都八王子市片倉町
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