2022/04/17
椎津城/千葉県市原市
椎津城は、真里谷信隆が本拠としたお城です。訪問日は2022年1月8日です。

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椎津城は戦国時代、真里谷信隆が本拠としたお城です。
しかし現在は住宅街に飲み込まれ、主郭が辛うじて残っています。
城域は、椎津川に囲まれた一帯だったと推測されます。
5の道は一方通行ですが、ここだけ路肩が広くなっています。
5~6は堀切の名残が残っており、5は堀端らしい地形になっています。
南へ2本目の道も堀切跡とされ、東側にその名残がありそうです。
西側から見てわからずスルーしてしまいましたが・・・
6~7~8では、腰曲輪が見られます。
主郭部には明確な区切りは無いものの、3つに区画されていたようです。
僅かながらに土塁や虎口などを見ることが出来ます。

1 椎津川越しの遠景
城跡は、姉ケ崎駅から徒歩10分程南にあります。
手前を流れるのは、堀代わりになりそうな椎津川です。
この川は城の東・北・西を囲むよう蛇行しています。
今では住宅街となった城跡ですが、雰囲気を感じます。
当日は雪が残っていたため、電車で城跡めぐりをしました。
バイクではここを通り過ぎてしまい、撮影出来なかったと思われます。

2 切岸
城跡へ向かう道は、本当にただの住宅街です。
「ここが城跡だった」と信じてくれない人の方が多そうです。
それでも、城キチの目には往時の姿が目に浮かびます。
幻影ではないと思いたいです。

3 入口の入口
城跡への案内はありますが、少ないです。
川を渡ってすぐの矢印から、道なりに歩いたつもりです。
そうこうする内にだんだん不安になりますが・・・
これ以上進んだら行き過ぎる?と思うのがココです。
切岸状にぽっかり口を開けた道・・・
山中の景色に脳内変換すると、「!」となります。
クルマはここに停めておけます。

4 入口
実はスルーしてしまいましたが・・・
上の入口の入口の所で鋭角に右を見たのがココです。
私はそこまで首を振らなかったので直進しましたが(汗)
城跡らしさはありませんが、幟が目印になります。
・・・巻き付いてほぼ読めませんけど


5 堀跡
さて、入口をスルーしてしまった私。
なぜなら、この光景のインパクトが大きかったからです。
「住宅街になり何も無い」という先入観が邪魔をしました。
なんだ、ちゃんと堀の名残があるじゃないか!という感じです。

6 腰曲輪
堀跡を抜けると、城山の脇に平坦地があります。
どうみても改変されまくったであろう平坦地です、
往時からこの地形なら、間違いなく腰曲輪です。

7 北側の腰曲輪
城跡はこっちだ!と、上の平坦地の奥へ進みました。
すると、段々になった腰曲輪が連なっています。
どうみても畑なので、改変されまくってるでしょうけど。

8 裏側の入口 図を表示
裏側にも、城跡に上がれる場所があります。
目の前に図がありますが、なぜか立入禁止と書かれています。
まぁ、表が解放されているし危険な感じもなし。
こちらから上がりました。

9 虎口
上がった所は、土塁に挟まれた虎口でした。
「何も無い」という先入観は、ココで打ち消されました。

10 主郭
まぁ、内部はこんな感じですが。
いつもの賑やかさはありません。
私はこっちの方が好きですがw

11 なるべく広く 説明板を表示
幟のある入口側から、なるべく広く撮りました。
内部は低い土塁で隔てられています。
写っていませんが、右側にも少し段差のある部分があります。

12 標柱
城跡を示すモニュメント、欲しかったです。
土塁上に立つ超美文字の標柱ゲットです^^

13 別の角度から
段差のある所から見た主郭です。
広さはそれ程でもないですが、綺麗に削平されています。

14 北西隅の土盛り
外周の土塁は途切れ途切れです。
所々にこんな感じの土塁があります。
ここは櫓台でもあったのでしょうか。

15 虎口
そして、幟のある入口につながる虎口です。
舗装されていますが、面影はバッチリ残っています。

16 入口
虎口から下りてきて撮った入口の案内です。
「房総の戦国史」とありますが、その通りです。
ここは上総の雄・真里谷氏の本拠地でしたから。
地形的には川に囲まれた一帯が城だった感じです。
住宅街に変貌しましたが、こうして一部分だけ残っています。
◆歴史◆
築城時期は諸説あります
・千葉一族・椎名胤仲が1325年頃に所領としていた
・建武2年(1335年)三浦高継が椎津を所領としていた
・応仁年間(1467-69年)に三浦定勝が築城?
・明応年間(1492-1501年)上総武田氏が北方の備えとして築城?
などです
1519年、古河公方に攻められました
この2年前、真里谷恕鑑が小弓公方を擁立。
古河公方、千葉氏らへの対決姿勢を鮮明にしました。
小弓公方は真里谷軍・里見軍を率いて、古河公方勢を撃退。
翌年には、敵方へ侵攻する積極姿勢を見せています。
1534年、小弓公方に攻められました
真里谷恕鑑の後継者は真里谷信隆と決まっていました。
しかし、小弓公方が真里谷信応を推し横槍を入れます。
これにより、真里谷家中が真っ二つに割れました。
真里谷信隆は5月に真里谷城を脱出し、椎津城に籠りました。
これは、後ろ盾となった後北条軍の支援を得るためです。
半年後に椎津城は陥落し、真里谷信隆は峰上城へ移りました。
そこも小弓公方に攻め落とされ、子の真里谷信政が守る造海城へ移ります。
今度は造海城が里見義堯に攻められ、和歌百首を条件に開城。
真里谷信隆は、後北条家を頼り武蔵国金沢へ逃れました。
1538年、真里谷信隆が復帰します
第一次国府台合戦で小弓公方と後北条軍が激突しました。
しかし、小弓公方が戦死し、真里谷信応は後ろ盾を失いました。
後北条軍の支援を得た真里谷信隆は、上総に戻り真里谷信応を圧倒。
敗れた真里谷信応は、里美義堯を頼り安房へ逃れました。
上総に復帰した真里谷信隆は、椎津城を本拠としました。
1552年、真里谷家が没落しました
1551年に真里谷信隆が没すると、里美義堯が動きます。
北条氏康が真里谷信政や土岐頼定に接近したためです。
しかし、土岐頼定は後北条家に付かず里見義堯に通報。
里見義堯は先手を打って、真里谷信政を攻めました。
正木時茂率いる里見軍により椎津城は落城し、真里谷信政は自害しました。
この時、里見家で匿われていた真里谷信応が誅殺された説もありますが・・・
里見義堯は真里谷信応の子・真里谷信高を真里谷家当主とします。
真里谷家は以後、里見家の傀儡となります。
真里谷信高は真里谷城に入り、椎津城は里見家臣が城代となります。
戦国時代の城主・椎津小太郎は、里見家臣だったとされます。
1564年頃から後北条家と里見家で争奪戦を繰り返します
1564年、里見軍が再び国府台で後北条軍と激突。
第二次国府台合戦と呼ばれるこの戦で、里見軍が大敗を喫しました。
すると、里見家に従っていた土岐家や大多喜正木家らが離脱。
真里谷家も一時、里見家を離れて後北条家に従うようになります。
里見家は本拠・久留里城も陥落し、一時上総の大半を失います。
椎津城は、後北条家臣・白幡六郎が城主となります。
1567年、後北条軍が再び里見軍と直接対決します。
場所はかなり南の三船台で、里見義弘の居城・佐貫城のすぐ北です。
後北条軍が三船台に砦を築いていることを察知し、里見軍が攻撃。
これに対し、後北条軍は北条氏政・氏照兄弟の本隊が出撃しました。
戦いは里見軍が勝利し、後北条軍本隊の敗北という歴史的事件となりました。
これにより、真里谷家、庁南武田家、勝浦正木家などが里見家に帰順。
里見家は勢力を盛り返し、一気に上総の領地を回復しました。
その後里見軍は、下総の千葉家領に攻撃を仕掛けています。
この時に拠点としたのが、後北条軍から奪還した椎津城でした。
1576年、後北条軍が上総へ侵攻。
土気と東金の酒井氏が再び降ります。
この時、椎津城は後北条軍の指揮下に入っていました。
以後、廃城となるまで後北条家臣・白幡六郎が城主を務めます。
1590年、廃城となりました。
豊臣秀吉が小田原城を攻めた際、浅野長政が房総半島に侵攻。
後北条家に属する各勢力の城を攻めました。
この時に椎津城にも攻め寄せ落城。
白幡六郎は脱出するも、3km程離れた白塚という所で討死。
城は戦後、廃城となりました。
所在地:千葉県市原市椎津 GPSログダウンロードページ
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