2013/02/17
鎧摺城/神奈川県葉山町
鐙摺城は由比ヶ浜から三浦半島への入口にあります。訪問日は2011年9月24日です
三浦半島の付け根に位置し、鎌倉から江ノ島にかけて一望することができます。
鐙摺山の名の由来は、石橋山で源頼朝が挙兵する3年前まで遡ります。
源頼朝が立ち寄った際に馬の鐙が地に摺れたことがその名の由来とされています。
小さな山ではありますが、急峻な崖に囲まれています。
現在、城跡は特に目立った遺構はありません。
ここには伊東祐親の供養塔が残されています。
伊東祐親は幽閉中の源頼朝が子をもうけた八重姫の父親です。
この事を知った伊東祐親は激怒し、平家の追及を恐れて千鶴丸を殺めていました。
平家方として富士川の戦で捕まり、娘婿の三浦義澄に免じて処刑は免れました。
しかし、千鶴丸の事もあり潔しとしなかった伊東祐親は自刃したのでした。

▲麓から見上げた所

▲登城口

▲本丸

▲城跡からの展望(西側)

▲伊東祐親供養塔
◆歴史◆
平安時代末頃までに三浦氏により築かれたと考えられます。
三浦氏は前九年の役(1051~62年)の戦功により三浦半島を与えられたとする説があります。
しかし、後三年の役(1083~87年)の戦功として三浦半島を与えられたとする説の方が有力です。
1180年、三浦義澄が由比ヶ浜で陣を敷きました。
歴史に登場するのが石橋山合戦の直後からです。
近所の由比ヶ浜で畠山重忠の軍勢と遭遇して、
偶発的に小さな岩山に陣取っただけなのかもしれません。
三浦義明の3男・大多和義久が居城としました。
鎌倉時代には三浦氏の一族がこの地に城を築いて居城としていました。
三浦氏は1247年の宝治合戦で一度は北条得宗家に滅ぼされています。
その後、庶流の佐原氏が三浦氏を再興して鎌倉幕府の重鎮であり続けました。
1512年、三浦義同が立ち寄りました。
三浦氏は室町時代、扇谷上杉氏の重臣として相模に勢力を保っていました。
しかし、伊勢宗瑞(北条早雲)が相模に進出すると、領地を奪われました。
三浦義同は相模西部の岡崎城を居城としていましたが、伊勢宗瑞に奪われています。
そのため三浦半島の新井城に移りましたが、3年半に及ぶ篭城戦の末に滅亡しました。
所在地:神奈川県三浦郡葉山町堀内
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