2016/10/08
葛山城/静岡県裾野市
葛山城は新旧東名道に挟まれた丘陵上にあります。訪問日は2014年9月20日です。

登城路はいくつかありますが、私は大手口から訪ねました。いつもいつも「ここだ!」と思ったのが搦手口だったりするので


上の写真の矢印の所から見た入口です。案内が道に張り出していないので、見落として通り過ぎそうになりました。パッと見が大きな家の入口っぽく見えないこともない、ですよね?手前の土盛りが馬出になって、虎口が曲がって中が見えませんし・・・って、発想がすでにだいぶ病んでます


入口からズンズン進んで行くと、立派な案内図が現れました。ここからは徒歩での登城となります。

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せっかくなのでパクリます。案内図が設置されたのが平成13年なので、既に10年以上経ちますがこんなに綺麗です。普段からかなり念入りにお手入れがされている証拠ですね!

最初の坂を登り切った所が大手曲輪です。

その先にあるのが東曲輪で、いよいよお城の主要部に近づきました。

東曲輪を抜けた所はこんな感じです。もう、城キチとしては心臓バクバクもんです。だって、二重の堀切が見えてます!、よね?

真横から見た一号堀です。案内図では堀切も竪堀も通し番号が付けられています。

一号堀のすぐ脇にある竪堀です。

すぐ後ろには二号堀があり、こちらの竪堀は麓の仙年寺までつながっています。

二号堀からは外側の帯曲輪へ進みました。だって私素直な性格ですからw斜面に付けられたただの道に見えますが、図では曲輪と書かれています。


帯曲輪の外側には三号堀、四号堀と竪堀が続きます。帯曲輪の幅を所々狭くすることで、敵の侵入スピードを抑えようというものでしょうか?上にもう1本帯曲輪があり横矢が掛かっているので、そんな事考えてみました。

奥まで進むと上に上がる虎口があります。ここは坂虎口ですが、まっすぐではありません。敵の侵入に備えていくつもの工夫が重ねられています。

その虎口に登りながら見た五号堀です。下から見るV字形も




虎口から上がった所にある二郭です。かなり広いです。二郭は主郭を包むようになっており、下の帯曲輪に対して横矢が掛かっています。こうして見ると、輪郭式の山城なんですね!

二郭よりも一段高い所が主郭です。今は東屋があるだけの山上の広場ですが、往時はどうだったのでしょう?脳内で妄想がグルグルとフル回転します。
◆歴史◆
葛山氏の詰城でした。
葛山氏は平安時代末にはすでに当地に居たようですが、築城年代は不明です。
一説には本家の大森氏が小田原に移った頃(1416年上杉禅秀の乱の後)とされています。
なので、ここから下は葛山館の歴史の室町時代以降をコピペします。
室町時代に入ると、葛山氏は足利将軍家に直接仕える奉公衆となりました。
初期はまだ今川家臣ではなく、幕府の命令で今川軍とともに行動することがありました。
伊勢盛時とは特に関係が深く、娘を嫁がせたり養子に迎えて家督を継いだりしています。
葛山氏に入った養子は葛山氏広で、北条早雲と葛山氏出身の娘の子とする説が有力です。
通字である「氏」はこの時からなんでしょうね。
また、北条氏滅亡の直前まで生きていた北条幻庵は、葛山氏から嫁いだ娘の子です。
伊豆や相模での伊勢軍の活動に、葛山氏は協力しています。
これは幕府の命令ではなかったでしょうねw
しかし葛山氏はその後、次第に今川家の家臣と化していきました。
1568年、葛山氏が領地を失いました。
武田信玄が駿河へ攻め込んだ際、葛山氏は今川家を離れ武田方に寝返っています。
そして、武田軍の穴山梅雪とともに、今川軍を助けた富士郡にある北条軍の城を攻めました。
そのため、逆襲に転じた北条軍により領地を追われ、武田方の富士郡へ逃れました。
1571年、武田軍が反撃に転じて領地を取り戻しました。
一時は駿河から撤退した武田軍でしたが、1569年から再び駿河へ侵攻しました。
武田軍は北条軍と戦って駿河東部の拠点・深澤城を攻略し、葛山領もこの時に奪い返しました。
1573年、葛山氏元が武田信玄により処刑されました。
葛山氏元は、北条氏政への内通を疑われて信濃国諏訪で処刑されました。
これが「天正元年の2月」とWikipediaには書かれていますが・・・
天正元年は1573年の8月からなんですよねw
こういう事もあるので、Wikipediaは鵜呑みには出来ません。
かなり参考にはなりますけど。
この1573年2月というのは、武田信玄が三河へ侵攻して野田城を攻め落とした頃です。
北条氏への内通を疑われて処刑されたのは、武田信玄の病状を密告したのでしょうか?
武田信玄は葛山氏元の娘を六男・信貞に嫁がせ、葛山氏の家督を継がせています。
しかし、葛山信貞は10代前半のため甲府に住み続け、葛山は御宿友綱が代わりに治めました。
御宿友綱は葛山氏元の甥ですが、若い頃から武田信玄に仕えていました。
武田信玄の信頼も厚く、その侍医を務めたとされている人物です。
1582年、葛山氏が滅びました。
武田勝頼が織田信長により滅ぼされ、葛山信貞も甲府善光寺で自害しました。
葛山信貞は甲府に居たので、葛山館には御宿氏が住んでいたかもしれませんが・・・
御宿氏はその後、北条氏政、徳川家康に仕え、旗本として存続しています。
所在地:静岡県裾野市葛山
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