2016/10/08
葛山館/静岡県裾野市
葛山館は土塁がとてもよく残っています。訪問日は2014年9月20日です。

葛山氏館の前の道です。道端に立派な案内図がありますが、その反対側は鬱蒼とした木々。もしかしたら藪?なんて予感が、頭の片隅をよぎりました。

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道端の案内図です。葛山館と葛山城は、葛山氏の平時の居館と詰城がセットで残っている貴重な遺構です。この案内図の背後に見える山が葛山城なので、図と城跡を並べて見られます


木々の間の道を進んで館跡に入ると、中は畑でした。かなり広いお屋敷ですね!

この広い空間を、高さ3m程の土塁がグルっと囲んでいます。内側は木が伐採されており、綺麗に土塁が見える部分がかなりあります。出来たら外側も・・・というのは贅沢な望みでしょうか?

訪ねたのが9月20日ということで、丁度彼岸花が見頃を迎えていました。一面真っ赤に咲いていると圧巻です




◆歴史◆
葛山氏の館でした。
名前の通りですがw葛山氏で調べると大森氏の庶流ですが、大森氏で調べると葛山氏は登場しません。地理的には大森氏の隣近所なので、大森氏の庶流だとは思いますが。源頼朝に従って活躍し、葛山一帯を安堵されています。館が築かれたのはこの頃でしょうか。
室町時代に入ると、葛山氏は足利将軍家に直接仕える奉公衆となりました。初期はまだ今川家臣ではなく、幕府の命令で今川軍とともに行動することがありました。伊勢盛時とは特に関係が深く、娘を嫁がせたり次男を養子に迎えて家督を継いだりしています。通字である「氏」はこの時からなんでしょうね。伊豆や相模での伊勢軍の活動に、葛山氏も協力しています。これは幕府の命令ではなかったでしょうねwしかし、葛山氏のその後は次第に今川家の家臣化していきました。
1568年、葛山氏が領地を失いました。
武田信玄が駿河へ攻め込んだ際、葛山氏は今川家を離れ武田方に寝返っています。そして、武田軍の穴山梅雪とともに、今川軍を助けた富士郡にある北条軍の城を攻めました。そのため、逆襲に転じた北条軍により領地を追われ、武田方の富士郡へ逃れました。
1571年、武田軍が反撃に転じて領地を取り戻しました。
一時は駿河から撤退した武田軍でしたが、1569年から再び駿河へ侵攻しました。武田軍は北条軍と戦って駿河東部の拠点・深澤城を攻略し、葛山領もこの時に奪い返しました。
1573年、葛山氏元が武田信玄により処刑されました。
葛山氏元は、北条氏政への内通を疑われて信濃国諏訪で処刑されました。これが「天正元年の2月」とWikipediaには書かれていますが・・・天正元年は1573年の8月からなんですよねwこういう事もあるので、Wikipediaは鵜呑みには出来ません。かなり参考にはなりますけど。この1573年2月というのは、武田信玄が三河へ侵攻して野田城を攻め落とした頃です。北条氏への内通を疑われて処刑されたのは、武田信玄の病状を密告したのでしょうか?
武田信玄は葛山氏元の娘を六男・信貞に嫁がせ、葛山氏の家督を継がせています。しかし、葛山信貞は10代前半のため甲府に住み続け、葛山は御宿友綱が代わりに治めました。御宿友綱は葛山氏元の甥ですが、若い頃から武田信玄に仕えていました。武田信玄の信頼も厚く、その侍医を務めたとされている人物です。
1582年、葛山氏が滅びました。
武田勝頼が織田信長により滅ぼされ、葛山信貞も甲府善光寺で自害しました。葛山信貞は甲府に居たので、葛山館には御宿氏が住んでいたかもしれませんが・・・御宿氏はその後、北条氏政、徳川家康に仕え、旗本として存続しています。
所在地:静岡県裾野市葛山
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