2013/05/11
浄福寺城/東京都八王子市
今日はお天気悪いので、沢山書きます(その予定です)。第1弾は、GW前に訪れた浄福寺城です。
訪問日は2013年4月27日です。

▲浄福寺の石碑
浄福寺城は、大石氏の館跡という説もある浄福寺の裏山一帯にあります。その浄福寺の石碑が陣馬街道沿いにあり、その背後に浄福寺城の説明板があります。

▲説明板①

▲説明板②
説明板には、ザックリとした説明が書かれています。ザックリしているのは、浄福寺城が謎だらけのお城だからかもしれませんが・・・

▲縄張図に登城ルートを記入(拡大)
その説明板にとても良い図があったので拝借します。今回訪城したルートと遺構を書き込んだものを貼っておきます。

▲登城口
登城口は、浄福寺の西端にあります。陣馬街道沿いにも写真の案内看板が出ています。

▲浄福寺の墓地にある白山大権現
上の看板の所から入ると、突き当たりは墓地となっています。この墓地は通路が迷路みたいですが、まずは写真の白山大権現を目指します。この祠の脇から山中へと道が続きます。

▲観音堂
しばらく道が整備されて登りやすいのは、この観音堂があるからかもしれません。観音堂の前で急に道が険しくなって、その上の平場にお堂があります。この虎口みたいな地形を見ると、登城口を警備する郭のように見えました。

▲登城路
観音堂からは、細い稜線上を緩やかに登ったり下ったりします。2つ目のピークを越えた辺りから、登り坂がキツクなり始めます。傾斜がキツイのと、落ち葉が積もっているのとでとても滑りやすいです。
傾斜が更にキツクなると、道沿いに小さな平場が見られるようになります。主郭のすぐ下なので、兵を置いて守らせた場所なのかもしれません。

▲主郭
急な坂を登り切ると、ぱっと開けた平場に出ます。ここが主郭です。主郭には物見台っぽい土の盛り上がりがあり、そこに基準点と小さな祠がありました。

▲主郭にある基準点と祠
主郭に辿り着いてやれやれと思いましたが、この城跡の見所はこの先にありました。主郭の北東側に尾根伝いに道があったので、そちらに進みました。

▲堀切①
すると、道は急な下り坂に。帰りはこれを登るのかよwと少しウンザリしながら下ると・・・
下り切った所で振り返りヽ(´ー`)ノ下り坂は主郭北側の切岸で、その端に掘切がありました。南側の登城路には無かった構造です。

▲堀切②(南)
さらに平坦な道をしばらく進むと、露骨に尾根を削った堀切に遭遇しました。最初に現れた堀切でテンション上がりましたが・・・

▲堀切②(北)
その堀切を越えた所に更に深い堀切が!あぁ、来てよかったヽ(´ー`)ノ登って来た疲れが吹っ飛んだ瞬間でした。

▲郭①
そこから先はまた登り坂となり、そのピークは小さな平場と土塁らしき痕跡が。ここで北から来る敵を防ぐ構造なのかもしれません。

▲堀切③
登り切った郭①から更に道の先を見ると・・・!急な下り坂の先に、かな~り大きな堀切が2つ連続しているのが見えました。どうやらここが北からの敵に備えた最大の防御ポイントのようです。その高低差は5m強。大嫌いな山登りをした甲斐がありましたヽ(´ー`)ノヽ(´ー`)ノ

▲郭②
その先には緩い傾斜の平場があります。平場とは書きましたが、地面は波打った感じです。居住空間というよりは、兵を篭めて北の尾根から来る敵を防ぐ拠点といった感じです。

▲抜け道?
その平場から元来た道を戻るのがメンドイな~と感じていた時、1本の脇道が目につきました。どこに通じているのか分かりませんでしたが、結構人が歩いた形跡があります。そういえば、来る時に郭①手前の登り坂から脇道が1本出てたから、そこにつながってるのかも・・・
まだまだ陽の高い真っ昼間だし、迷ったらまた戻って来ればいいや、ということでその道へ。予想通り、郭①の脇を通る抜け道でした。
この道を通ってわかったこと。それは、山城における竪堀の役割でした。縄張図に水色で示したこの抜け道を遮るように、2本の竪堀が描かれています。せっかく大きな堀切まで掘って防御拠点にしたのに、そこをスルーされたらたまりません。城を攻める敵には平坦な抜け道を通らせず、クソ真面目にアップダウンさせるのが目的なんですねw
◆歴史◆
1384(至徳元)年に大石信重が築いたとされます。
麓には館跡とされる浄福寺があります。浄福寺は文永年間(1264~74年の間)に、広恵上人により開基されたと伝わります。そして、1525(大永5)年に大石道俊・憲重父子が大檀那となって再興されています。・・・ということは、1525年以前に一度お寺は廃れたということですね。廃寺となってから再興されるまでの間、大石氏が館を構えていたかもしれません。当時、二宮城を本拠としていた大石氏。浄福寺城はなぜ築かれたのでしょうか?
ヽ(´ー`)ノ 以下は完全に妄想の世界です ヽ(´ー`)ノ
1379年、鎌倉公方・足利氏満が康暦の政変に乗じて挙兵・上洛しようという動きがありました。この無謀な挙兵を諌めたのが、関東管領・上杉憲春でした。憲春は氏満が10歳で鎌倉公方に就任して以来、10年にわたって氏満を補佐した人物です。
憲春の自害により氏満は謀反を思い止まったのですが・・・この事を知った将軍・足利義満は、氏満へ圧力をかけるようになります。氏満は方針転換して幕府寄りとなり、南朝勢力討伐により支配基盤の強化を図りました。
この一触即発の時期、大石氏が氏満の配下として行動するならば・・・八王子近辺が本拠地であった大石氏が備える勢力は、甲斐の武田氏だと思います。甲斐武田氏は南北朝時代は北朝方で、幕府寄りに行動するはずだからです。
浄福寺城は「裏甲州街道」と呼ばれている「陣馬街道」を押さえる位置にあります。お寺が一時廃れたのも、この時に強制的に明け渡しを要求されたのかも知れません。
ヽ(´ー`)ノ 妄想タイム終了w ヽ(´ー`)ノ
その後の関東と甲斐の争い・・・
1415年
上杉禅秀の乱。甲斐守護・武田信満は上杉禅秀側として戦いました。鎌倉で敗れた信満は、甲斐へ逃れた後に関東管領・上杉氏に討伐されました。守護が討たれた甲斐国は、以後100年近く内乱状態となります。
1524~26年
両上杉氏と後北条氏の争いに武田信虎が介入。甲斐国都留郡で何度か北条氏綱と戦っています。
1568年
武田信玄が三国同盟を破棄し、駿河に侵攻。翌年、小田原城にも攻め込みました。信玄の侵攻に備え、多少の改修はあったかもしれません。
これらの戦いで、浄福寺城がどんな役割を果たしたのかはわかりません

1590年
豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされました。この時に廃城になったと考えられています。
所在地:東京都八王子市下恩方町
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