2016/10/04
長久保城/静岡県長泉町
長久保城は本当はかなり規模の大きいお城だったようです。訪問日は2014年9月20日です。

城跡は国道246の南側一帯にあります。「城山」交差点を南に入り、すぐ西の「城山神社」交差点の北西に遺構が残ります。この交差点から1本西側に↑の道があり、この先に駐車場があります。

駐車場脇には石段があり、城山神社へと続いています。もう、土塁が見えてますけどw

登った所はこんな感じになっています。遺構は全般的にもやっとした感じですが、段差があるのがわかります。

上の写真の虎口だか土塁っぽい所を越えると、すり鉢状の曲輪が見えました。ココが八幡曲輪です。西側の土塁は残っていますが、東側は削られて無くなっています。土塁の高さから想像すると、本当はかなり大きな曲輪だったようですね。

さらに奥に進むと、土塁の上に物見櫓っぽい建物が見えます。冷静に見れば土塁の切れ端なのですが、何となく櫓台っぽくも見えますね。

せっかくなので、その櫓っぽいのを撮りました。よく見るとアスレチック風な遊具ですね。でも、場の雰囲気を壊さないので


ここからUターンすると、虎口っぽいのが見えます。・・・オリジナルでしょうか?かなり破壊されているので、ちょっと疑い深くなっています。虎口にしては不自然な感じがします、よね?

来た時とは逆方向で見た土塁です。残ってる方だけで撮ると、壮観ですね


さらに南へ進むと、神社がありました。来た時は神社を通り過ぎた所から入ってたんですね。ここが辛うじて残っているのは、神社があったからなのでしょうか。写真では隠れていますが、右側の狛犬の陰にお城の説明板があります。

そして、神社の周りもしっかり土塁が巡っています。八幡曲輪の南隣にあるココが南曲輪です。

さらに神社の参道を辿ると、元来た道に出ました。段差のある地形が城塁っぽく見えますが・・・削られただけです。本当はもっと高さがあったそうです。手前側は大手曲輪があった場所です。

神社の周りはガッツリ市街化していますが、東から北にかけても城域でした。余湖さんの図を見ていると、国道246が東西の堀跡の位置にあるように見えます。地図で「城山」とある交差点がココで、城域のド真ん中でした。道の北側が三の丸の跡です。すでにチョットだけ写っていますが、この交差点の北側に城址碑があります。

大きな国道でなかなか信号が青にならないので、手を抜いて望遠で撮っちゃいました

◆歴史◆
今川家と北条家が争奪戦を繰り広げました。
築城年代や築城者は不明です。歴史に登場するのは河東の乱(1537年と1545年)頃からです。乱のいきさつや経過などは割愛しますが・・・割愛しないとかなり長くなる自信あります。
北条氏綱は伊勢盛時の嫡男で、駿河で生まれました。後北条氏の通字となっている「氏」は、元服の時に今川氏親から与えられた説もあります。
・・・あっw
1537年、北条氏綱は駿河へ侵攻し、駿河の富士川より東側を占領しました。今川義元はここで和議を結び、騒乱はいったん終息しました。
はしょり過ぎた感がしますが、世間的にはこんなもんでしょうか?
1545年、今川義元が反撃に転じました。今川義元の軍師・太原雪斎は、この日のために周到に準備をしていました。それが北条包囲網の構築です。武田信虎を追放した武田晴信や、関東管領・山内上杉氏、扇谷上杉氏、そして古河公方など。地図を見ると、海のある南側以外は完全に囲んでいます。
戦端を開いたのは今川軍で、富士川を越えて河東へ攻め込んで来ました。この時に長久保城を包囲したのだそうです。父・北条氏綱が没して家督を継いだばかりの北条氏康は、当然迎え撃つべく出陣しました。しかし、時を同じくして北条氏の最重要拠点である武蔵の河越城が包囲されました。包囲したのは、両上杉氏と古河公方の連合軍8万です。
・・・いつの間にか、長くなる気配がプンプンして来ました

北条氏康は「こりゃあかん」と思ったのでしょうか、今川義元と和議を結びました。駿河東部は、興国寺城以外は今川義元が奪い返すことに成功しました。一方の河越城では、北条軍が10倍の敵を相手に世紀の大逆転劇を演じました。これが河越夜戦です。
・・・ここまで来ると書きたくなりますが、気になる方はググって下さいm(_ _)m
今川義元が討死した後、北条軍と武田軍が争奪戦を繰り返しました。
1568年12月、武田信玄が今川氏真との同盟を破棄して駿河に攻め込みました。迎え撃つ今川軍では武田軍に寝返る者が後を絶たず、駿府でさえ僅か1日で陥落しました。今川氏真は駿河を脱出し、重臣・朝比奈泰朝の籠る掛川城へ逃れました。この時、北条氏政は今川氏真との同盟により、駿河へ援軍を出しました。北条軍は富士川を越え、薩埵峠で武田軍と対峙しました。やがて両軍は一旦兵を退き、北条氏政は駿河東部を版図に加えました(`・ω・´)同盟を破棄しても守っても、やってることは一緒なんですねw
1569年、一旦は駿河から撤退した武田信玄が反撃に転じました。北条包囲網を築くため、宿敵・上杉謙信や東の佐竹氏などと同盟を結んだのです。武田信玄は満を持して大軍を動員し、なんと小田原城を包囲しました。
同年、掛川城を徳川家康に攻められた今川氏真が、北条氏政の元に逃れて来ました。北条氏政は次男・氏直を今川氏真の養子としました。こうして北条氏政は、駿河領有の大義名分を手に入れました。
1570年、武田信玄は駿河侵攻を再開しました。駿府西部の田中城だけでなく、駿河東部の富士川の東側にも攻め込みました。北条軍は分が悪かったようで、興国寺城周辺を除いて武田軍に奪われました。
1571年、武田信玄の城になったようです。
武田軍はさらに進撃し、ついには相模の一歩手前にある深澤城も攻め落としました。ここで北条氏政は武田信玄と和議を結びます。武田軍の城になったと思われますが、北条氏の城だったという説もあります。・・・平たく言うと、長久保城の動向はよくわかっていません

1582年、徳川家康の城になりました。
織田信長とともに徳川家康が武田勝頼を討伐し、駿河が徳川家康の領地となりました。この時、北条氏政も織田・徳川方として行動し、駿河東部に兵を出しています。長久保城は徳川家康の城になったので、それまでは武田軍が居た可能性が高いと思います。城は築城の名手・松平家忠により改修され、牧野康成が城番を務めました。
1590年、中村一氏の城になりました。
北条氏政が討伐された時、徳川家康がココで豊臣秀吉を迎えたそうです。それなりに格式のある大きなお城だったものと思われます。徳川家康が関東へ移されると、駿河は豊臣家臣・中村一氏の領地となりました。駿河東部は中村一氏の弟・中村一栄が三枚橋城に入っています。中村氏が支配していた頃の長久保城については、使っていたかどうかさえ不明だそうで…遅くとも、1601年に中村氏が伯耆へ移るまでには廃城になったようです。
所在地:静岡県駿東郡長泉町下長窪
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