2016/09/25
沼津城・三枚橋城/静岡県沼津市
沼津城は三枚橋城の跡に築かれていました。訪問日は2014年9月20日です。

沼津城・三枚橋城の本丸だった場所は、現在中央公園となっています。沼津市街の超一等地だと思いますが、随分思い切った事をしますね


まず、この公園には城址碑がありますヾ(*´∀`*)ノ

更には図の入った説明碑もありますヾ(*´∀`*)ノ

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そしてパクリますヾ(*´∀`*)ノこうして図を見るだけで、跡形も無いんだなって思い知らされます。

だって、すぐ目の前はこんな大きな交差点ですからw

それでも、わずかにお城だった名残を見出すことができます。まずは、中央公園前の交差点を左へ曲がります。そこにある静岡銀行沼津支店には、三枚橋城のものとされる石垣が復元されています。

さらにそのまま100メートル程先の沼津リバーサイドホテル前にもあります。
こちらは図を重ねると完全に城外なのですが、どうなんでしょう?

あと、沼津城の移築門が1つだけ残っていました!光長院辻之坊の山門(地図)です。これは中の門の1つだったとされます。訪問時は修繕していますが、門本体をいじってる訳ではなさそうです

◆歴史(三枚橋城)◆
1579年、武田勝頼により築かれました。
越後であった御舘の乱により、武田勝頼と北条氏政が敵対することとなりました。そのため、武田勝頼が北条軍の侵攻に備えて新たに城を築きました。越後との境を守っていた海津城主・春日信達が城代となりました。
1582年、徳川家康の城となりました。
織田信長が武田勝頼を攻めた際、徳川家康は駿河に攻め込みました。この時に北条軍も連動し、近隣にあった武田方の戸倉城が陥落しました。三枚橋城では城兵が動揺したため、春日信達は海津城へ撤退。残った小笠原信嶺は降伏し、領地(信濃国松尾)が安堵されました。三枚橋城には徳川家康の家臣・松平忠次が入りました。
1590年、中村一栄が城主となりました。
徳川家康が関東へ移った後、駿河には豊臣家臣の中村一氏が入りました。三枚橋城にはその弟・中村一栄が3万石の城主として入りました。
1600年、大久保忠佐が城主となります。
関ケ原の戦の後、中村一氏の子・一忠が伯耆国へ加増移封しました。代わりに徳川家康の家臣・大久保忠佐が三枚橋城に入りました。大久保忠佐の子は早世しており、末弟に家督を譲ろうとしたそうです。しかし、その末弟が自分の功ではないと固辞。結局、1613年に跡継ぎが無いまま大久保忠佐が没し、そのまま廃城となりました。
◆歴史(沼津城)◆
1777年、水野忠友が三枚橋城跡に城を築きました。
水野忠友は信濃佐久郡7000石の旗本・水野忠穀の子です。父の死により12歳で家督を継ぎ、徳川家治の小姓となりました。その後はトントン拍子で出世し、ついには大名に復活。
さらに加増を受け、1777年に沼津2万石に移って来ました。この時、三枚橋城跡の北半分に新たな城を築きました。これが沼津城です。
水野忠友は田沼意次の政策に賛同し支えていましたが・・・将軍・徳川家治の死去により1786年に失脚しています。しかし、その10年後に再び老中に復活し、子の代には田沼意正の相良復帰を助けています。沼津藩の水野家は8代続き、明治時代を迎えました。
1868年、沼津兵学校となりました。
徳川家達の駿河移封に伴い、沼津藩主・水野忠敬は上総菊間藩に移封となりました。城跡は沼津兵学校として使われましたが、1871年に廃校。廃校後に城跡は払い下げられ、建物は破却されました。その後、堀が埋められるなどして市街地として開発され、現在に至ります。
所在地:静岡県沼津市大手町
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