2016/09/19
朝比奈屋敷/静岡市葵区
朝比奈屋敷は、今川義元の重臣・朝比奈元長の屋敷があった所です。訪問日は2014年9月14日です。

朝比奈屋敷は今川義元の重臣・朝比奈元長の屋敷があった所です。今川館があったと思われる駿府城からかなり近いです。今更地図を眺めていると、背後の丘に登る道があります。独立丘陵なので、もしかしたら詰城だったかもしれませんね!・・・そういう意識で訪ねてないので、背後の丘は全く見ていません

◆歴史◆
朝比奈元長の屋敷がありました
朝比奈元長は、今川義元と織田信秀が三河で争った小豆坂の戦にも参陣していました。この戦は守山崩れで崩壊した松平家の奪い合いで、そのまま三河を巡る争いでもありました。松平家を継いだ松平広忠(徳川家康の父)は、今川義元を選びました。駿府で人質として過ごした竹千代→松平元康を後見したのが、関口親永と朝比奈元長でした。
朝比奈元長は1559年、屋敷内に寺を建てました。開山は哉翁宗咄和尚(=朝比奈元長の伯父・朝比奈俊元)です。
1560年、今川義元が桶狭間で織田軍の奇襲により討死。朝比奈元長もこの時に本陣で鉄砲傷を受けたそうです。
1562年、松平元康が岡崎城で独立し、今川家に属する城を攻め始めました。今川氏真は激怒し、娘を松平元康に嫁がせていた関口親永に切腹を命じました。ともに松平元康を後見していた朝比奈元長は、気が気で無かったのではないでしょうか。そんな朝比奈元長も、1566年頃に世を去ったとされています。
その後の駿河朝比奈家ですが・・・嫡男・朝比奈信元は1568年の武田軍侵攻の際に降伏し、武田家臣となりました。新たな領地として庵原郡一帯を与えられ、駿河先方衆筆頭となりました。さらに、1580年には徳川家康に一度は奪われた持舟城の城代にも任命されました。しかし、1582年に武田勝頼が滅ぼされ、朝比奈信置は庵原の館で自害しました。駿河朝比奈家は、持舟城開城に立ち会った三男・朝比奈宗利が継ぎ、旗本として続きました。
所在地:静岡市葵区瓦場町(元長寺)
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