2016/09/18
小瀬戸城/静岡市葵区
小瀬戸城は新東名のすぐ脇にありました。訪問日は2015年1月24日です。

登城口は新東名の静岡SA脇にあります。SAに向かう道に入ってすぐ左の脇道に入り、高速をくぐってから左側です。ここは突き当りで広くなっており、通行の邪魔にならないので気軽に停められます。新東名を造る時のものと思われますが、仮設の食堂っぽい残骸が残っています。土地は国が買い上げたのでしょうか?地主様が見たら黙ってないだろ?という位に散らかってます。

道の突き当りからは、山の上に登る階段が付けられています。他に行く所も無いので、完全に小瀬戸城を見るためだけに付けられた感じです。

その途中には立て札の立った踊り場が。

「北の出丸」ですか。この状況では「跡」が付かないとおかしいですね。我ながら変な所にツッコミますw

登り切った所は、静岡アルアルのお茶畑となっています。ここが2郭なのだそうです。

周りに高い木が無いので、とても見晴らしが良いです。物見櫓っぽく撮ってみましたが、ちょっと無理がありますね


山のてっぺんのお茶畑が城跡でした、だとちょっと物足りないですよね?そう思って奥を見ると、何やら木々の間に「こっち来い」的な道が見えます。

知らない人には付いて行きませんが、そういう誘惑には弱いですwということで進むと、こんな風景が見えました。同じビョーキの人ならもうわかりますよね?

堀切です


立て札には「堀切り跡」と書かれています。かなり崩された状態なのでしょうか。立て札がモノサシ代わりになり、あまり大きくないのがわかります。でも、この角度のカットは外せません^^

その先の虎口っぽい所から登った所が主郭です。よくここがお茶畑にされなかったなぁと感心します。

主郭には立派な城址碑があります。説明板によると、この石は駿府城の石垣に使われたものと同じだそうです。藁科川沿いでその採石場跡見つかり、そこにあった石を城址碑にしたそうです。

端っこに楔の跡があるのはそのせいなんですね!

ココから駿府がよく見渡せます。とは言っても賎機山に隠れて駿府城は見えませんが・・・それでも、なぜここにお城が築かれたのかがよくわかる気がします^^
◆歴史◆
南北朝時代に狩野氏に築かれたと考えられています。
室町時代はじめ頃、安倍城に拠る南朝方の狩野氏により築かれたと考えられています。ここは北朝方の今川軍が、朝比奈城から狩野城へ向かう道沿いにあります。なので、地理だけで見れば今川軍が安倍城を攻めるための付け城のようにも見えます。ただ、現在サービスエリアとなっている辺りは「御所の谷」と呼ばれていたそうです。興良親王や遠江を追われた宗良親王が、この辺りに滞在したと伝わります。
その後は朝比奈氏の城となりました。
南北朝の争いは1400年頃まで続きましたが、駿河では北朝方の今川氏が勝利しました。かなり以前から今川氏は駿河守護でしたが、狩野氏を降すことでようやく駿府に入りました。その時期は明確ではありませんが、遅くとも応永年間(1394~1428年の間)とされます。今川氏が駿府に入ると、小瀬戸城一帯は朝比奈氏の領地となりました。
1568年、武田軍が駿府を占領しました。
今川氏真との同盟を破棄した武田信玄が、駿河に攻め込みました。今川軍は激しく抵抗・・・とはいかず、多数の重臣がアッサリ武田軍に寝返りました。こうして駿府は1日で陥落し、今川氏真は朝比奈泰朝の掛川城へと逃れました。
駿河を占領した武田軍は、各地で城を武田流に改修しました。しかし、小瀬戸城にはその形跡が無いので、この時までに廃城になったと思われます。
所在地:静岡市葵区小瀬戸
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