2013/05/08
小田野城/東京都八王子市
トンネルの上にある城跡、小田野城を紹介します。
▲都道61号小田野トンネル
小田野城は都道61号の小田野トンネルの真上にありました。長らく伝説の城跡と呼ばれ、存在自体が不明だったそうです。しかし、都道建設前の発掘調査によりその存在が明らかとなりました。当初は切り通しにして山を崩す予定でしたが、史跡保存の機運が高まってトンネルに変更されました。

▲城址脇の公園
「タウン入口」交差点から住宅街に入って山の方に向かうと、道沿いに細長い公園があります。ここが城跡への入口です。公園の南端付近には、写真の説明板があります。

▲説明板
この説明板、実測の縄張り図と解説が書かれています。八王子市教育委員会様、グッジョブですヽ(´ー`)ノ

▲縄張図(拡大)
早速ですが、その縄張り図に少し加筆したものを貼っておきます。あんまり書き加えるものはありませんでしたが・・・w

▲公園から城跡への入口
公園は空堀沿いにフェンスが巡っています。その南端に写真の通り入口があります。地形を見た感じ、フェンスは空堀への転落防止が目的のようです。

▲空堀
フェンス越しに見える空堀です。いきなりですが、かなりの規模です^^

▲枡形状遺構
その空堀のすぐ上に郭のような平場があり、土塁のようなものがあります。何だろう?と思いましたが、これが枡形状遺構だそうです。

▲本丸の脇
さらに進むと、道は本丸の脇に沿って進みます。城攻めの時は、本丸から狙い撃ちにされそうな造りです。

▲本丸
本丸はとても広いです。長辺は50mほど。大勢の兵を籠められそうです。

▲本丸南側の土塁
本丸の南側は土塁で仕切られています。普通は郭の縁に土塁を盛り、その外側に空堀を掘るものですが・・・空堀は見当たりませんでした。素人の印象では、そこから先に進ませたくない感じ。この先の尾根を伝っていくと、八王子城に通じているようです。

▲本丸北側の物見台
本丸の北端には、2mほど土が盛られた物見台があります。お城の構造は北からの攻撃に備えているように感じました。
◆歴史◆
1587年、八王子城と同時期に築かれたと考えられています。推測ですが、小田野肥後守定久の館を、その息子・小田野源太左衛門が改修したようです。地理的に八王子城から北の尾根にあり、その防御が目的のようです。
八王子城攻めの前哨戦として上杉景勝、前田利長ら北国勢が攻め落としたと言われています。ただし、未完成なため放棄されたとも言われています。
・・・結局の所、伝承のみで何もわかっていません。
そんな感じなので、長い間存在自体が不明な「伝説の城」だったそうですw
それが、1979(昭和54)年に始まった発掘調査によって、城跡の存在が明らかになりました。この発掘調査は、都道建設に伴うもので、当初は城跡を切通しにする予定だったそうです。
ところが、城跡の存在が明らかになると史跡保存の機運が高まり、トンネルに変更されました。それが一番上の写真です。
小田野氏は1590年の後北条氏滅亡後にも生き残りました。小田野肥後守定久は放浪の末、1616年に八王子で没しました。小田野源太左衛門は浪人となった後、小田源左衛門と改名して水戸徳川家に仕えました。源太左衛門は武勇の士だったようで、北条氏康が武功を賞した書状が残っています。
所在地:東京都八王子市西寺方町
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