2016/09/14
花沢城/静岡県焼津市
花沢城は思った以上に城域が広かったようです。訪問日は2014年9月14日です。

花沢城へはミカン畑の道を通って行きます。ある程度登った所に五差路があり、そこにお城の案内が出ています。

2012年に撮影されたGoogle Mapのストリートビューでは、まだ花沢城の案内は無し。どういういきさつで追加されたのか気になります。城キチとしては嬉しい限りですが


花沢城の案内の方向を見ると、細い道の入口に説明板があります。びっしりと文字が書かれ、バッチリな図も載っています


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絵心が無い私は、このような図があると大変うれしいです^^しかし、当時の私は「どこから登るの?」という事しか頭にありませんでした。すぐ左の道に堀跡の切通があるのに気づいていません


ということで、説明板のあるこの道の先に登城口があります。もうバイクの左側に曲輪が写ってますけどね


案内に従って走った先で、カーブの所に小さな立て札が立っている所があります。ここが登城口です。ここからは徒歩で山道を登ります。

登城路はこんな感じです。藪かきは無く、道筋ははっきりしています^^

10分程で主郭に辿り着きます。

小さな祠の脇には、お城の図があります。

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こんなのです



すぐ隣には藪が濃すぎて見えない二郭があるそうですが・・・その手前の郭を隔てる空堀は見事なものだそうです。・・・見落としてるので、意地で主郭の土塁だけでも載せておきます

◆歴史◆
1537年頃の築城と考えられています。
花倉の乱に勝利した今川義元が、駿河西部の押さえとして築いたと考えられています。城主等やその後しばらくの動向については不明です

1570年頃、武田信玄に攻められ落城しました。
駿河に侵攻した武田軍に攻められ落城しました。城を守っていたのは大原資良で、激しく抵抗したものの、1ヶ月程で開城しました。
大原資良は、三河や遠江西部で活躍した小原鎮実と同一人物という説が有力です。小原鎮実は、吉田城で徳川家康に内通した国人の人質達を串刺しにした人物です。吉田城を退去した後は浜名湖西岸の宇津山城を拠点に、反今川方の国人衆を攻めました。宇津山城が1567年に陥落した後に入ったのが、ここ花沢城だとされます。
三河物語には、1568年に小原備後守が高天神城の小笠原氏に殺されたと記されています。これを根拠に、花沢城が落城したのが1568年だとする説もあります。時期や周囲の出来事から考えると、この時でも不自然ではありません。武田信玄が駿府へ攻め込んだのが1568年12月で、すぐ北の丸子城も陥落しています。今川氏真が駿府から掛川城へ逃げ込んだのがこの時で、その半年後に徳川軍に降伏しています。高天神城の小笠原氏も、徳川軍の一員として掛川城に攻め込んでいます。だとすると、今川家臣がまだ寝返える前の小笠原氏を頼るのは当然ですよね?
ただ、似たような話があったので、同じ事を繰り返すか?という疑問があります。それは、遠江国にあった岡崎城での今川家臣・三浦義鎮の事件です。正室の実家である岡崎城へ身を寄せた三浦義鎮が、高天神城の小笠原信興に殺されました。三浦義鎮は今川氏真お気に入りの重臣でした。小笠原信興は、三浦義鎮の首を手土産に徳川家康に寝返ったとされています。小原備後守の話は、三浦義鎮と名前が入れ替わっただけで内容はほぼ同じです。
※↑書いた後で知りましたが、小原鎮実と三浦義鎮は親子でした

武田軍の動きを追いかけると、1568年末に駿府を制圧しました。その後、西焼津駅近くにあった田中城を押さえたのが1570年です。掛川城に籠っていた今川氏真は1569年5月には相模へ退去していましたが・・・攻めて来ないので降伏する訳にもいかず、大原資良は花沢城に籠り続けたのでしょうか。
1569年は、武田信玄が駿河、徳川家康が遠江を山分けする約束が生きていたようです。武田信玄は駿河侵攻により北条氏康との同盟が反故になり、外交的に忙しかったようです。上杉謙信と同盟を結んだ武田信玄は、10月には大軍を率いて小田原城を包囲しています。そのため、駿河西部のこの辺りはまだ手付かずのまま残っていたようです。
・・・ということで、状況的には1570年落城説が有力だと思いますが、如何でしょうか?山西地域を攻略した武田軍は、花沢城は使わなかったようです。そのため、武田軍に攻められ落城した時に廃城になったものと思います。
所在地:静岡県焼津市高崎
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