2016/09/11
朝比奈城/静岡県藤枝市
朝比奈城は実は堀切が沢山あるお城です。訪問日は2015年1月24日です。

朝比奈城へ行くには、まず「玉露の里」を目指します。ここには沢山クルマが停められる駐車場があります♪なんて書くと怒られますネ


ここにある案内図です。これが無いと「どこから登るんだ?」ってなりそうです。登城路へは一度

入口がわかれば、あとは大丈夫です。

あとはこんな感じであちこちに案内があります。方向音痴の私にはとてもありがたい配慮です


綺麗に整備されたハイキングコースをサクサク登ると、出っ張りに東屋があります。物見台でもありそうな感じがしますね!城跡が近そうだ!とワクワクしてきます。

こうして辿り着いた広い場所が主郭です。玉露の里から17分で着きました。

上の写真にも写っていますが、角度が厳しくてわかりづらいのでアップで載せます。説明板に城跡の立て札。おし!撮ったどー!!で帰るのはまだ早いです。実は、この先にまだまだ見どころがあります。

主郭から20メートル程奥に進んだ所に、このように空堀と土塁があります。土塁は主郭側にあるので、主郭を守るための防御施設と思われます。

さらに50メートル程進んだ所には、物見台と思われる高台があります。距離は体感なので、測ったら100メートルあるかもしれませんけど


ちょっと戻り今度はここから東曲輪を見に行きます。ここから矢印の出ていない写真の右側へ進みます。

ご覧の通り、道はありませんw迷子になるとシャレになりませんので、目印を付けながら進んだ方が良いです。

シダ野原を下って行くと、やがてこんな感じの細い尾根に出ます。ちょっと下る位置がズレてるな?と感じたら、尾根の方へ移動して下さい。

この細い尾根には、こんな感じの堀切がいくつか見られます


堀切をいくつも乗り越えた先には、こんな感じの曲輪があります。あんまり広くありませんけど

◆歴史◆
朝比奈氏のお城でした。
朝比奈氏は藤原北家の末裔・堤国俊が、朝比奈郷に住み朝比奈姓を名乗ったことに始まります。鎌倉時代には朝比奈郷の地頭となり、代々この地を治めてきました。南の岡部氏は、朝比奈氏から派生した一族とする説があります。室町時代には駿河守護となった今川家に仕え、その重臣として活躍しました。ただ、朝比奈城の築城時期はわかりません

南北朝時代、主の今川氏は安倍城を拠点とした狩野氏と争っていました。今川氏は駿河守護ではありましたが、狩野氏のため駿府に入れずにいました。これは私の推測ですが・・・今川氏は花倉城を築き本拠としましたが、朝比奈氏が城を築いたのもこの頃と思われます。地図を見ると、安倍城から花倉城へ向かう道に朝比奈城があるからです。同じく今川家重臣の岡部氏の朝日山城も、別のルートから花倉城へ向かう道筋にあります。
戦国時代は・・・?
朝比奈氏は、駿河朝比奈氏と遠江朝比奈氏に分かれていました。駿河朝比奈氏の当主は朝比奈俊永→元長→信置の名が伝わっています。ググってみると、朝比奈元長、信置はWikipediaでは「庵原城主」と書かれています。Wikipediaなので、根拠とするほど何から何まで正しい訳ではありません。それでよ~く読むと、武田信玄が駿河侵攻後、朝比奈信置に庵原領を与えたとありました。ということで、朝比奈元長が庵原城主だったというのは誤りのようです。推測ですが、駿河朝比奈氏の本拠地であり、朝比奈城城主だったと思います。少なくとも武田家が滅亡するまでは、ですが。
1582年、武田家滅亡とともに廃城になったと思われます。
朝比奈信置は用兵に長け、武田家中では駿河先方衆筆頭として重臣の列に加わりました。1579年に徳川家康に落とされた持舟城を武田軍が奪還すると、その城代にもなりました。しかし、1582年に徳川軍に攻められ落城すると、朝比奈信置は久能山に撤退。その後、庵原城も徳川軍により攻め落とされました。武田勝頼が自害した後、朝比奈信置は自害を命じられ、嫡男・信良も諏訪で殺されました。主を失った朝比奈城は、この時までに廃城になったと思われます。
その後の駿河朝比奈氏ですが・・・次男・朝比奈元永は豊臣秀次に仕えた後、山内一豊の家臣となっています。持舟城を開城した三男・朝比奈宗利は徳川家臣となり、旗本として存続しています。
所在地:静岡県藤枝市岡部町殿
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