2016/09/10
勝間田城/静岡県牧之原市
勝間田城はとても整った土の城です。訪問日は2015年1月24日です。

県道には何も案内は出ていませんが、県道から入った道にはこのように案内があります。ここから右に曲がった所が駐車場となっています。城跡の入口まで舗装道は続いていますが、停める所はありません。ここから歩いて、徐々にテンションを上げていきましょう


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上の写真の奥の方に写っている案内図です。もちろんパクリます。絵心と根気強さがあれば、自分で描くんですけどね


ちょっと進んだ所から撮ったお城の方角です。お茶畑が富士山っぽい形になっている所が出曲輪です。

案内図から歩くこと7分でここに辿り着きました。舗装道が終わり、木々の入口の所に何やら石碑が見えます。ちょっとわかりづらいのですが、道の両脇がえぐれています。ここが図でいう三の曲輪の入口です。

もちろん撮ります、城址碑


カーブを曲がり切ると、真正面に見えるのがこの虎口です。あまりに形が整っているので、復元でしょうか?まぁ、どちらでもいいですけど


虎口の手前から左側にあるのが三の曲輪です。城址碑の上に当たる場所を内側から撮りました。外周に土塁が巡っており、侵入しようとする敵を上から狙い撃ちにする感じですね!

虎口を内側から見た所です。内側の方がちょっと高くなっていますね!ただ、土塁の外側に堀が無く、造りの古さを感じさせます。

二の曲輪から本曲輪へ向かう道です。ここは三の曲輪のように囲まれてはいないんですね・・・何となくですが、三郭からの横矢と、虎口のある土塁が防御機構の全てな感じがします。二の曲輪とはいってもまとまった空間ではなく、三の曲輪と区切られているだけなので。

本曲輪の手前左側には、東尾根曲輪がこんな感じであります。二の曲輪とは明確に区切られてはおらず、その中に小高い所がある感じです。新しいお城では櫓台に相当するのでしょうか。

煙と城キチは高い所へ・・・ということで、やっぱり登ります。そこから虎口の方を見ました。この風景、イイですね


東尾根曲輪の向かいに本曲輪があります。こちらも周囲よりちょっと高くなっています。険しい感じではなく「偉い人が居る高い所」という雰囲気が漂います。

本曲輪には、説明板と社があります。高台っぽい所はありますが、土塁では囲まれていません。

本曲輪からさらに奥の方を見ると、何やらお城っぽさ満点な風景


奥の本曲輪や南曲輪、東尾根曲輪と二の曲輪や三の曲輪は雰囲気がかなり違いますね。築かれた時期が違うのでしょうか?
◆歴史◆
勝間田氏が応永年間に築いたと考えられています。
勝間田氏は横地氏初代・横地家永の次男を祖とする一族です。横地家永は源義家と相良氏の娘の子です。史料に現れるのは保元物語からだそうで、源義朝に従う様子が記されています。室町時代になると将軍家直属の奉公衆となり、応永の乱や永享の乱で活躍しました。勝間田城は勝間田定長の代に築かれたと考えられています。
1476年、今川義忠に攻められ落城しました。
今川義忠は駿河守護で、遠江守護・斯波義廉と遠江の支配権を巡り争っていました。1467年、斯波氏の家督争いも絡んだ応仁の乱が始まると、今川義忠は東軍に属しました。
1473年、東軍の三河守護・細川成之救援のため預けられた所領を巡りトラブルが発生。この兵糧用の所領は遠江国内にあり、今川義忠は巨海氏と狩野氏を滅ぼしてしまいました。狩野氏を滅ぼした今川義忠は、一族の堀越貞延を遠江国府の見付に配置しました。そのため、野心むき出しの今川義忠は、同じ東軍の細川成之や斯波義良とも対立しました。勝間田氏は将軍直属なので東軍に属しており、この頃今川義忠と袂を分かったと思われます。
1475年、斯波義廉の重臣で遠江守護代だった甲斐敏光が東軍に寝返りました。これにより斯波義良(東軍)が遠江守護となりましたが、今川義忠は遠江侵攻を続けました。横地秀国と勝間田修理亮は、小夜中山で堀越貞延を討ち見付を奪いました。
1476年、今川義忠は見付を奪還し、その勢いに乗って勝間田城を攻めました。城攻めは7日間にわたって昼夜関係無く続き、勝間田修理亮が討死して落城しました。今川軍は更に横地城も攻め、横地秀国も討ち取りました。これにより、遠江の有力者であった横地一族が滅びました。
横地城を攻め落とした今川義忠は、その後新野へ向かいましたが・・・その手前の塩買坂で横地氏や勝間田氏の残党に襲われ、矢に当たって討死しました。
所在地:静岡県牧之原市勝田
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