2013/05/06
高月城/東京都八王子市
先々週の続きで高月城です。高月城は、二宮城から見ると秋川の対岸にあります。
その入口は・・・写真の通りですw

▲高月城への入口
確かに「高月城」の入口なのですが、妙に凝ってますwまずは、この細い路地に入ります。

▲道の右側にあるホテル高月城
50m程進むと、道の右手にホテルが。城跡へ向かう方は、更にまっすぐ20m程進んで下さいw

▲登城口
ホテル脇の切り通しの丁度真ん中位に、写真の登城口があります。クルマは切り通しを抜けた所に、1台位なら置けそうなスペースがあります。

▲いきなり土塁?
登城口から入ってすぐは、切り通しのような道になっています。でも、振り返って見ると、道の左側は土塁のように土を盛ってあるのが分かります。土塁にしては、どこから何を防ぎたいのかいまいち分かりません。ホテルも城域の一部らしいので、地形の改変があったのでしょうか・・・

▲2郭
登城口からまっすぐ進むと、壁にぶつかるような所に出ます。そこから斜面を斜めに登る道となります。ぐるっと平場を回り込むようになっており、その平場が2郭の跡です。昔は畑だったらしいのですが・・・写真はただのヤブですね


▲主郭に到着!
斜面のうねうね道を5分程登ると、主郭に辿り着きました。山城にしては早過ぎるような気もしますが・・・
主郭入口は虎口となっており、その手前は細い土橋でした。左側は小さな平場でしたが、右を見ると急斜面!高さは20mはあろうかという崖でした。

▲主郭を奥から見た所
主郭はかなり広く、長辺は50m以上ありそうです。一部は畑として利用されていました。

▲主郭東側に土塁
主郭の東側は、肉眼でも写真でもわかりづらいのですが、土塁が巡っていました。見た感じは背の高いヤブに囲まれているといった感じです。斜面をよじ登って来る敵を防ぐのでしょうか。

▲主郭奥の堀切と土塁
主郭の奥はヤブになっていますが、堀切で区画されているのが分かります。ここら辺のヤブを刈ってくれるととても見ごたえがあるのですが・・・この先は鬱蒼とした深いヤブとなっており、見ても何も分かりませんでした。この堀切も、かつてはもっと深かったのでしょうね。
◆歴史◆(ざっくり)
※1458年
大石顕重が高月城を築き、二宮城から本拠を移しました。
<背景>
1455年に足利持氏が上杉憲忠を討ち取ったことで、享徳の乱が起こりました。分倍河原の戦いで上杉方は大敗し、大石氏は重仲や房重らが討死して大打撃を受けました。ただ、援軍の駿河・今川氏が鎌倉を占領したため、足利持氏は本拠を古河へ移しました。
扇谷上杉氏は古河公方・持氏に対抗するため、河越城・岩付城・江戸城を築城。大石氏もこの動きに合わせて滝ノ城(所沢市)、柏ノ城(志木市)と合わせて高月城を築きました。両上杉氏と古河公方の戦いは1483年まで続きました。
※1521年
大石定重が滝山城を築き、高月城から本拠を移しました。
<背景>
後北条氏が相模を制圧し、武蔵を窺うようになっていました。伊勢宗瑞(北条早雲)は、1516年に三浦氏を滅ぼして相模を完全に制圧しました。1519年に伊勢宗瑞が没し、その後を北条氏綱が継ぎました。代替わりをした氏綱は、宗瑞の遺志を継いで武蔵へ勢力拡大の動きを見せていました。
大石氏は高月城では防ぎきれないと考えたのか、滝山城を築いて移りました。高月城は武蔵守護代としては手狭だと感じたのかもしれません。
※その後・・・
1524年 北条氏綱が江戸城を攻略
1537年 北条氏綱が河越城を攻略
1538年 北条氏綱が小弓公方を滅ぼす(第一次国府台合戦)
1546年 北条氏康が扇谷上杉氏を滅ぼし大石氏が軍門に降る
1559年 北条氏照が大石氏の養子となり家督を相続
高月城は大石氏が本拠を滝山城に移してからも、城として使われ続けていたと考えられています。1568年に武田信玄が三国同盟を破棄。信玄の侵攻ルートを秋川沿いと予想した氏照は、秋川沿いの城を整備して備えました。高月城は滝山城から距離も近く、特に重要な支城でした。さらに小田原への行軍ルートにも重なるため、特に厳重に備えたのではないでしょうか。
1590年、後北条氏は豊臣秀吉に滅ぼされました。高月城もこの時に廃城になったと見られます。
所在地:東京都八王子市高月町
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