2016/08/31
横地城/静岡県菊川市
横地城は山上に長く伸びるお城でした。訪問日は2014年9月13日です。

横地城への案内です。方向音痴にはとてもありがたいです


上の案内の所からちょっと進むと、今度は左折するよう案内が出ています。
案内は最初だけで、あとは何も無い所がけっこうあったりするので、とても助かりますね



案内の所から見たお城の方向です。いよいよ山に入って行く感じです。

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上の写真にも写っていますが、山に入る直前に案内図があります。もちろん、パクリますw細い山上を使った城だというのがわかります。

目指すのはもちろん、堀切のある所です。ということで、山上に上がったらひたすら東へ進みました。私はバイクだしどこでも停められるかな?ということで、乗ったまま。道は舗装されているので、安心して進めました。途中ショッキングな標柱があります。この写真載せてつぶやいたら「なぽ子になった!」なんて言われましたが・・・


舗装道の終点がココです。上の案内図で主郭が書かれていませんでしたが、どうやらここが主郭のようです。「東の城」に当たる場所でしょうか・・・?

「金寿城」へ登る時、左側に綺麗に仕切られた空堀と曲輪が見えます。特に何もないのが丸見えなので行きませんでしたが、とても整っていました^^

さらに、登る道から金寿城を見ると、こんな感じで段々が見えました。こういう風景って、お城らしくていいですね


登り切った所は削平された曲輪があり、真ん中に城址碑があります。やはりここが主郭でしょうか。

見る物は見たしもういいや、で帰り掛けましたが・・・こういうのが出てくると、やっぱりまだ、となるのが城キチです。

道端にこんもりと土が盛られた感じの所があり、そこに標柱が立っています。登ってみましたが、特に何もありませんでした


なぁんだとまた帰ろうとすると、今度はもっと色々並んでいました。ここでもやっぱり停まってしまうのは仕方ないですよね?

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ここにも図がありますが、さっき見てきた東曲輪と同じ位に西曲輪が立派に描かれています。もしかしたらこっちにも何かあるかも?

こちらは横地神社があるので、曲輪の上まで一直線に階段が伸びています。本来の登り道がどうなっているのか気になりつつ、誘惑には勝てません。

社殿が見えてきてもうすぐという所で、横堀と土塁がありました。腰曲輪かもしれませんが、同じようなもんですよね?

そして、西曲輪の一番上にある神社です。両脇がイイ感じの斜面になっていて、一番高い所感がすごくします!もしかしたらこっちが主郭?などとも思えてきました。どうなんでしょうか?
◆歴史◆
横地氏のお城でした。
横地氏は、源義家の庶長子・横地家永を祖とします。1051年、陸奥の安倍頼良討伐に向かった源頼義が、長雨で遠江国見付に20日程留まりました。その時、源頼義の嫡男・源義家が相良荘司・藤原維頼の娘を寵愛し、子が出来ました。この子が横地家永で、横地に居を構えたそうです。それが横地城だったかどうかは?ですが・・・横地家永の嫡男・頼長が横地家を継ぎ、次男は勝間田次郎を名乗りました。以後、両家は常に行動をともにするようになりました。
築城は室町時代はじめ頃とされます。
南北朝時代に10代・横地家長が城を築いたとされます。以後、14代・横地秀国の代に滅ぼされるまで、横地氏の本拠地でした。
1476年、今川義忠に攻められ落城しました。
斯波義良(後の義寛)と今川義忠が、遠江守護の座を巡り争っていました。この辺りはややこしいのでザックリ書くと・・・
1468年、応仁の乱勃発、斯波家の家督を巡り斯波義敏と斯波義廉が争った
1474年、今川義忠(東軍)が遠江で斯波義廉(西軍)の家臣・狩野氏を滅ぼす
1475年、斯波義廉(西軍)の家臣・甲斐敏光が寝返り、斯波義良(東軍)が遠江守護になる
今川家の敵だった遠江が、守護代の甲斐敏光が寝返ることにより同じ東軍となりました。斯波家中では家督争いがあり、片方が西軍なら、他方は東軍ですからね

横地氏と勝間田氏はこの動きを警戒し、見付(国府のあった所)を奪って警戒しました。この見付に居たのが堀越氏でしたが、今川了俊の子孫で、遠江今川氏でした。知らなかったハズ無いんですけどね。
今川義忠はまずは勝間田城を陥落させ、そして横地城も攻め落としました。勝間田氏は没落し、横地秀国は討ち取られました。横地秀国の子・元国は甲斐の武田信虎を頼って落ち延びました。尚、この戦の後、横地氏と勝間田氏の残党により今川義忠が討ち取られました。これにより、遠江ではしばらくの間、斯波氏が優位に立ったのでした。
所在地:静岡県菊川市東横地
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