2016/08/26
松葉城/静岡県掛川市
松葉城は松葉のように細い尾根の先にあります。訪問日は2015年1月11日です。

登城口は県道沿いにこんな感じであります。この向かいに空き地があり、車を停められます。

詳しい説明板あります。気合入ってますね!城内にココが何的な物は何も無いので、図があるともっとイイんですが・・・通行にはご注意下さい、と書いたソバからいきなり階段です。

ここは本当に気を付けて下さい。登城路は人1人やっと通れるような幅しかありません。この左側は、下に川が見える断崖となっています。

崖っぷちを過ぎると、今度は細っそい尾根道になります。これだと多人数で一気に攻めることは出来ませんよね!

その途中に、明らかに人の手が加わった地形が現れます。・・・すっとぼけてますが、堀切です


地形がだいぶ平らになってきたな~という所で、テッペンに石碑らしき物体発見!

焦らずにちゃんと道のある所を辿り、城址碑を拝めました^^「葉」の上の所が横一線にヒビ入ってますが、一度折れたのでしょうか?お供え物が塩なのも、ちょっと気になります。1袋は中身が完全に空ですが・・・


城址碑のある所から先を見た所です。また細い尾根となっています。私はココでUターンしてしまいましたが、この先に立派な堀切があるようです

◆歴史◆
1496年、勝間田播磨守と鶴見因幡守に攻められ落城しました。
説明板に沿ってサッパリ書きましたが・・・歴史については、ほぼこの一文でおしまいです。この時の城主は河合成信でした。落城の様子は200年以上経ってから、河合成信が開基した長松寺の住職により記されています。それによると・・・
・河合成信主催の酒宴に、近くに来ていた勝間田播磨守も立ち寄った。
・しかし、勝間田播磨守はちら見しただけで帰ってしまった。
・河合成信は非礼を咎める使者を勝間田播磨守に送った。
・勝間田播磨守は怒り、志戸呂城の鶴見因幡守を誘って松葉城を攻めた。
・河合成信と仲の悪かったその家臣・落合久吉にあらかじめ調略した。
・城攻めの際に落合久吉が内応し落城・
・河合成信は自害、妻子は崖から松葉川に身投げした。
という感じです。あちこちのサイト様で書かれている歴史は、おおむねこんな感じです。ここで登場するのがどんな人物だったのかをググってみました。
河合成信
落城時の事以外サッパリわからず

勝間田播磨守
勝間田氏は鎌倉幕府以来の豪族。足利将軍家直属の家臣で、応永の乱や永享の乱で活躍。応仁の乱で今川義忠と対立し、1476年に本拠の勝間田城を攻め落とされた。
鶴見因幡守
1496年、今川氏親に攻められ討死し、鶴見氏は滅亡。
松葉城を攻めた勝間田氏と鶴見氏は、いずれも今川氏に攻められています。当時の今川氏当主・今川義忠でググると、1476年に勝間田修理亮を攻めています。これは、斯波義良との遠江領有権を巡る争いの中での出来事でした。しかし、勝間田氏を討ち取った直後に、その残党により今川義忠が討死しました。
関係はわかりませんが、一番近い美人ヶ谷城の石谷氏は今川家臣でした。推測ですが、河合成信が今川家臣だったとすれば、今川氏vs斯波氏の局地戦だったと思います。今川義忠が勝間田氏と鶴見氏を攻めたのは、この報復だったのかもしれませんね。
所在地:静岡県掛川市倉真
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コメント
松葉城落城の年
文中松葉城が落城した年は1496年となっていますが、その松葉城を落城させた勝間田氏の勝間田城は1476年に攻め落とされたともあります。
勝間田城の落城年は合っていますので、松葉城の落城年が違っているのでしょうか。
2018/02/12 10:16 by 城跡ファン URL 編集
Re:松葉城落城の年
色々あり遅くなり申し訳ありません。
勝間田城は1476年に落城し、勝間田氏が没落したのは事実です。そして、その後の勝間田城の歴史は不明ですので、そのまま廃城になったものと思われます。
今回登場する「勝間田播磨守」については「勝間田城主」とは書いていません。勝間田氏は落城後没落しましたが、日本城郭体系の勝間田城の項では「明応五年(1496)、勝間田播磨守は兵を集めたが旧地を回復できず」と書かれています。つまり、勝間田城の落城後に勝間田氏は本拠を失ったままだった訳です。
1476年に勝間田城を攻め落とされた勝間田氏が、1496年に松葉城を攻めてもおかしい事ではないと思います。
2018/02/13 21:10 by なぽ URL 編集