2016/08/20
美人ヶ谷城/静岡県掛川市
美人ヶ谷城(びじがやじょう)は茶畑の奥にある山城です。訪問日は2015年1月11日です。

美人ヶ谷城へ行くには、まず山本神社を目指します。その社殿がこちらです。鯱が乗った屋根、イイですね



社殿裏の道に気付いたのは帰りで、来た時にその道には気付きませんでした。どこから登るんだろう?と思ってウロウロしていたら、神社の脇から登る道を見付けました。道の入口には、ちゃんとお城こっち!の案内も出ています。この道は軽がやっと1台通れる程の幅で、白いセメントで舗装されています。私はバイクでしたが、この手の道にはトラウマがあるので歩いて登りました。結果論ですが、バイクで登っても大丈夫です。

農道は茶畑の中を左右に曲がりながら続いています。こういう風景って、静岡らしいですよね



農道をズンズン登って行くと、T字路に突き当りました。そこにも「お城こっち」の案内が!迷子スキル高めの私にはとても有り難いです

左側へ進むと城跡へ、右側へ進むと神社の裏に通じています。

で、T字交差点から城跡の方を見た景色がコレです。この登り切った所が、平時の居館跡だったと考えられていますが・・・あれ?道は?www

ハッキリした道の突き当りから見えるのはこんな景色。矢印こっちを向いてるからここを突破するのか、というのが素直な感想。一応草は刈られて倒れているので、歩けないことはありませんでした。

その先に見えたのがこんな感じ。まぁ、冬だし藪でもいいや!で構わず進んでみました。

木が多くなって下草が少なくなると、ちゃんとした道が姿を現しました。「ちゃんとした」ではありませんね・・・山城ばかり行ってると、自分にしか見えない「道」が見えちゃったりするので


そのまま真っすぐ進むと、何やら文字の書かれたプレートが見えて来ました。その文字が読めなくても、何があるのかは一目瞭然ですが。これはきっと、軽度の城キチ君への親切な案内なのでしょう。でも、その前の試練を乗り越えられるレベルなら、大丈夫だとは思います^^

これが最初で最後の見所かもしれないと、色んな角度で撮影したのですが・・・

すぐ先にも同じプレートがw

次のプレートは、土の壁に貼ってあるように見えます。ということで、その手前の凹みは空堀というよりも堀切ですね!

堀切大好き


堀切を登り切った所(だったと思います)が南曲輪です。あまり広くないのですが、一応平らでまとまったスペースが確保されています。堀切で失速した敵を迎え撃つための曲輪だったのでしょうか。道はそこからさらに上に続きますが、手前がちょこっと窪んで見えます。見えますでしょうか・・・?空堀が3本あったらしいので、これがその3本目?なのかもしれません


登り切った所は木が伐採され、まとまった平地がありました。ここが本曲輪です。平らな他は特に何も無し。まぁ、いいじゃないですかw
◆歴史◆
石谷(いしがや)氏の城だったと伝わります。
実は正式な名前や城主の記録が無く、地元の口伝なのだそうです。そのため石谷城、美人ヶ谷城、城の壇、殿垣戸など色んな名前で呼ばれています。私はだいたい現地での表記で紹介することが多いので、「美人ヶ谷城」と書いています。ググってみると、Wikipediaでは「石谷城」として紹介されていました。「美人ヶ谷」の地名は「鬢ぜヶ谷(びんぜがや)」が江戸時代に転訛したものだそうです。なので、戦国時代は「石谷城」か「鬢ぜヶ谷城」と呼ばれていたかもしれません。
城主だったと伝わる石谷氏も、戦国時代以前ははっきりとしたことがわかっていません。藤原南家二階堂氏の子孫を称していたらしいのですが・・・同じ藤原南家二階堂氏を称する美濃の石谷氏は、「イシタニ」と読むのだそうです。他には公家・山科氏の地頭代・西郷氏の末裔ではないかという説もあるそうです。
1568年、石谷氏は徳川家康の家臣となりました。
当時の当主は石谷政清で、子の石谷政信、清定とともに今川家から鞍替えしました。政信は三男、清定は四男ですが、長男、次男が不明です。それ以前に戦死してしまったのでしょうか。石谷姓を名乗ったのはこの時らしく、それ以前は西郷姓だったようです。
1590年、石谷氏は武蔵国多摩郡に移りました。
徳川家康の関東移封に従い、武蔵国多摩郡に移りました。この時に廃城になったと思われます。・・・石谷氏が城主であれば、ですが

所在地:静岡県掛川市上西郷
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