2016/08/18
馬伏塚城/静岡県袋井市
馬伏塚(まむしづか)城は、本丸の一部分が残っています。訪問日は2014年9月13日です。

馬伏塚城の遠景です。
周りを田んぼで囲まれおり、湿地帯の島に築かれていた様子が窺えます。

本丸に北側から近づくと、ちゃんと案内もあります


上の案内のある所からお城側を見ると、この説明板が見えます。
おっしゃ!着いたゼとガッツポーズです^^

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早速図をパクリます(`・ω・´)
まずは現況です。
ほとんどが点線で、馬出しと本丸の土塁の一部しか残っていません。
一番上の遠景は、手前が馬出し、その奥のちょっと高い所が本丸でしょうか。

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古図と現況の図があったので、並べてみました。
お城自体は本丸が最南端で、その北側に郭を連ねていたようです。
現況の図で見ると、城域に家が建ち並び、その外側は田んぼになっています。

説明板のすぐ裏です。
馬出しの城塁です^^

こちらは土塁を切通した道です。

切通しを過ぎた所に、神社に上がる石段があります。

石段を見上げると鳥居があり、その左脇には城址碑があります^^

本丸北東隅の櫓台っぽい所に神社があります。
この手前が虎口で、馬出しに通じる土橋が図には描かれていますが・・・
当時撮った写真を見返すと、ありません。
またやっちまいましたが、これから訪ねる皆様はぜひ見て下さい

◆歴史◆
高天神小笠原氏が城主でした
遠江を巡って斯波氏と争っていた今川氏が、遠江攻略の拠点として築いたと考えられています。
築城年代は不詳ですが、遅くとも1500年頃までには築かれたとされます。
城主は高天神小笠原氏で、高天神城の城主も兼ねていた時期もありました。
高天神小笠原氏は信濃守護・府中小笠原氏から分かれた一族です。
小笠原貞朝が先妻・武田氏との間に生まれた長男ではなく、後妻の子を寵愛しました。
そのため、先妻は子を連れて松尾小笠原氏を頼り、後に三河国幡豆郡へ移りました。
・・・長くなりそうです

そのまま幡豆郡に土着した一族もありましたが、小笠原長高はさらに遠江に移りました。
今川氏親に仕えた小笠原長高が、馬伏塚城の城主に任命されたと考えられています。
1536年に今川家の家督争い(花倉の乱)で福島氏が敗れると、高天神城の城主も兼ねました。
今川義元のもとで遠江の要地を任され、重臣として活躍しましたが・・・
1560年に桶狭間の戦で今川義元が討たれると、今川家の衰退が始まりました。
1568年、徳川家康に寝返りました。
徳川家康が掛川城の今川氏真を包囲すると、城主の小笠原氏興は徳川方に寝返りました。
高天神城の城主だった子の小笠原信興も徳川方となりました。
1573年、武田信玄に攻められました。
武田信玄が徳川家康との約束を破り、遠江に攻め込みました。
馬伏塚城には徳川家臣の猛将・大須賀康高が来て守備に当たりました。
大須賀康高は武田軍の猛攻から城を守り切りました。
1574年、高天神城が武田軍に攻め落とされました。
武田勝頼が遠江に侵攻し、高天神城を攻め落としました。
城主の小笠原信興は武田家臣となりましたが、小笠原義頼は徳川家康に仕え続けました。
高天神城に籠城していた大須賀康高は解放されています。
その後、遠江の戦線は膠着状態となりますが・・・
1575年、長篠の戦で武田勝頼が織田・徳川軍に大敗
1578年、越後の御館の乱により、武田勝頼は北条氏政と対立
武田勝頼は外交戦略のまずさから四方を敵に回すようになり、次第に疲弊しました。
1580年、横須賀城が築かれました。
徳川家康が高天神城奪還の拠点として、新たに横須賀城を築きました。
城主には大須賀康高が任命され、その与力として小笠原義頼も従いました。
馬伏塚城には、三河から高力清長が入りました。
この頃から高天神城への攻撃を本格化させ、翌年ついに落城させました。
武田勝頼は周辺の状況から高天神城へ援軍を出せず、声望を大きく失墜させました。
1582年、馬伏塚城が廃城となりました。
武田勝頼が滅び、織田信長が謀反に斃れ、最終的に信濃・甲斐の大部分が徳川領となりました。
遠江では領地を争う戦乱が無くなったため、馬伏塚城は役目を終えて廃城となりました。
所在地:静岡県袋井市浅羽
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