2016/08/14
見付端城/静岡県磐田市
見付端(みつけは)城跡はお寺になっています。訪問日は2014年9月13日です。

見付端城は南北に2つの郭を連ねたお城でした。その城域は北にある磐田北小学校辺りまで及んだようです。私が訪ねた大見寺は、南の郭の南西部分に当たります。

山門には立派な鯱がついており、城跡を意識したのかな?と感じました。それよりもっと気になったのが、この三つ葉葵紋です。徳川家と何も無いとこんなの付けられないよな?と思いましたが・・・後でじっくり調べてみます♪※結局わからず


さて、お城の土塁がこのお寺に残っているというので訪ねましたが・・・はじめは見つけられず。もしかしてと、お墓の奥まで来た所で見つけました。お墓の背後で土が盛り上がっており、早速撮影。でも、お墓と一緒に写すのもなんだか気が引け、回り込む内に裏に出ました。

お墓の裏側は道になっており、その道沿いに土塁が続いていました。市街地のまんなかでいつ崩されても不思議ではない場所ですが、よくぞ残してくれたものです^^
◆歴史◆
遠江今川氏の居城でした。
室町時代に、遠江守護を務めた今川氏が居城としました。遠江今川氏は堀越城も居城としていましたが、いつどちらが、といった辺りは不詳です。ただ、遠江今川氏は堀越姓を名乗るようになったので、どうなんでしょう?
遠江国の国府がどこにあったかは確定していないそうです。ただ、様々な文献で見付が遠江の国府として記述されているそうです。そのため、遠江の中心地はこちらであり、少なくとも政庁としては機能したのかと思います。
見付端城の築城時期は不明ですが・・・今川氏が遠江守護だったのは1352~1401年、1407~13年、1508~69年です。間が空いている時期は斯波氏が守護だった時期で、遠江を巡って両家が激しく争いました。
この両家の争いは、日本の歴史に大きく影響することとなります。
長くなりそうなので止めましょうか?w
ちょっとだけ書くと・・・
・1476年、今川義忠が討死
・1515年、斯波義達が丸坊主にされた→織田家の台頭を招いた
などです。
遠江守護は今川家の初代駿河守護・今川範国が兼任していました。その子の代になり、嫡男が駿河、次男が遠江を継ぎました。その次男というのが、九州探題で活躍した今川了俊こと、今川貞世です。今川貞世は兄・範氏の没後、自ら子が当主となるのを拒み、範氏の子を当主に推しました。しかし、そうして当主になった今川泰範は、遠江を取り上げて独り占めしてしまいます。・・・なんて裏話、こうやって調べないと出てきませんよね♪
それでも、今川貞世の系統は「遠江今川家」として続きました。
1536年、今川義元により攻め落とされました。
正確には今川義元に命じられた、犬居城主・天野虎景です。この年、当主・今川氏輝とその弟・彦五郎が同じ日に没しました。すると、今川家中で家督争いが勃発(花倉の乱)し、氏輝の弟で5男の義元が勝利しました。この乱で遠江今川家は、義元と敵対した玄広恵探に味方していました。城主の堀越用山は、乱の終息後も今川義元に抵抗していたそうです。落城後、堀越用山の子・氏延は堀越城に移りました。
所在地:静岡県磐田市見付(大見寺)
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