2016/08/14
飯田城/静岡県森町
飯田城は飯田荘の地頭・山内氏の居城でした。訪問日は2014年9月13日です。

飯田城への道はGoogle Mapにも表示されていますが、現地ではちょっとわかりづらいです。クルマでナビがある方なら大丈夫だと思いますが・・・私はバイクで事前に印刷した地図を見ながら来る、なんてアナログちゃんにはちと辛いです。ということで、そのわかりづらい道の入口はココですw住宅街から山に通じる細い道です。

この道は農道のようで、いつ舗装が終わるんだろう?と恐れオノノキながら走りました。オンロードのバイクにとっては、未舗装の砂利道は天敵なので。あと、急に傾斜がキツクなったりするのも怖いのですが、ここではそれはありませんでした。

やがて農道はT字路に差し掛かり、舗装道は左へと続きます。この交差点に飯田城の案内があり、右脇にクルマが2、3台停められそうなスペースがあります。

T字路の所から見た城跡です。大きな看板が出ており、城跡が近いことがわかります。T字路から城跡方向は砂利道だったので、バイクをココに停めて歩きました。

先ほど見えた看板をすぐ近くから撮りました。砂利道が先ほどのT字路から続いており、クルマの方はここまで乗って来れます。

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早速ですが、城跡にあった案内図をパクリました。気合が入り、かつ、とてもわかりやすい図です。あまりにリアル過ぎると、却ってどこが何なのかわからなかったりしますからね^^

図を見て「古城」があることを知り、そっち方向を撮りました。赤いバイクが小さく写っていますが、その背後辺りでしょうか。

早速本曲輪に上がってみました。高い壁のような土塁にどうしても目が行きます。土塁のようではありますが、図では「物見曲輪」と書かれていました。土を盛ったのではなく、本曲輪を削平する際にわざと削らずに残したのでしょうか。往時の土木工事の様子を想像せずにはいられません。

城キチの性分なのでしょうか、高い所があると足が自然に動いてしまいます。でも、城キチはそれでいいんです!登った所にこんな立派な城址碑がありましたヾ(*´∀`*)ノもはや本能レベルで嗅ぎ付けたという感じです


高い所に登ると、下を見下ろさずにはおれません。見下ろしたからって、偉くなる訳ではないんですけどね

こうして見ると、二の曲輪の右側にも土塁があります。そして、南土塁とその土塁の間が大手口です。こうして見ると、二の曲輪はそのまま巨大な枡形虎口のようにも見えて来ます。

その虎口がココです。とても狭い上、その先が急な坂になっているのが見えます。私が登って来た道の方が坂が緩かったのですが、昔は無かったのでしょうか。もしそっちの道があったら、そちらこそ守備の要になりますからね。

虎口を外から見た所です。「坂土橋城虎口」と書かれています。初めて見る呼び方ですが、素直に解釈すると「坂になっている土橋のような虎口」ですね!文字から想像せずに、現実の姿を見た方がよっぽど早い気がしなくもありませんけど

◆歴史◆
飯田荘の地頭・山内氏の城でした。
山内氏は備後国が本拠ですが、鎌倉時代に飯田荘に所領を得て一族が移って来ました。鎌倉幕府は有力御家人が力を持ち過ぎないよう、所領を分散して与えたんですね。初めに本拠としたのが天方のようで、後に飯田に移って来たのだとか。当主の山内対馬守が飯田に居城を移し、天方には弟の山城守が入ったのだそうです。その時期は1400年頃だと考えられています。
1569年、徳川家康に攻められ落城しました。
この年の3月に徳川軍が掛川城を降し、今川氏真は領地を失いました。しかし、飯田城の山内氏や天方城の天方氏は、その後も抵抗を続けていました。6月には天方城が陥落し、山内氏の同族・天方通興は徳川家康の家臣となっていました。その後も飯田城は徳川軍に抵抗を続け、12月に落城しました。城主・山内通泰は討死しましたが、その一子・伊織は三河国広瀬村に落ち延びました。
廃城時期はわからず・・・
現地の説明板では、その後のお城については何も書かれていません。ググって出て来るサイト様では、武田軍が奪い、後に徳川軍が奪還したと書かれています。しかし、城番が誰なのかもわからず、廃城時期についても書かれていません。天方通興が徳川家臣になっていますが、降伏したので飯田城を与えられたとも思えず。徳川家康が直轄地とした後、関東に移る際に次の国主に引き渡されたのでしょうか。大手口の麓に「鈴木彦兵衛屋敷」というのがあるので、代官支配になったのかもしれませんね。
所在地:静岡県周智郡森町上飯田
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