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天方城/静岡県森町

天方城は公園として整備されています。
訪問日は2014年9月13日です。

【写】天方城①

天方城は山城ですが、近くまで来ると案内が出ています。割とメジャーなんですね^^

【写】天方城②

天方城は山城ですが、道が綺麗に整備されています。舗装されているので、オンロードのバイクでもお城まで上がって行けます!バイク視点の訪城記が無いので、「車で行けます」はアテに出来ないんですよね・・・w

【写】天方城③

この舗装道の終点が、天方城の駐車場です。かなり広いので、沢山停められます。

【写】天方城④
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駐車場の奥の方に写っていた案内図です。その横には文字がたっくさん書かれた説明板もあります。ビジュアルもテキストも、とても親切なお城です合格

【写】天方城⑤

駐車場は2郭を一部削ってるんですね・・・と思ったのはついさっき。現場では「あ、何か見える!」で、わらわらと歩み寄るのでした^^

【写】天方城⑥

そこで目撃したのがコレ。主郭をぐるっと空堀が囲んでいます。その姿はまるで巨大スライダーです!

【写】天方城⑦

空堀は後でまたじっくり、ということで主郭へ。公園というだけあって、内側は綺麗に芝が張られています。お約束の遊具もチラホラと見えます。

【写】天方城⑨

そして、城跡のお約束といえばコレ。カッコイイですねラブラブ

【写】天方城⑧

主郭の内側は芝生の綺麗な公園ですが、端っこはちゃんと土塁があります。土塁に沿ってツツジが植えられているのは、この先に進ませないためでしょうか。家族向けの公園にするとなると、土塁から先に転落しないようにする必要がありますからね・・・

【写】天方城⑩

だって、土塁の先はこんなですからw高低差2、3mで周囲を空堀がグルっと巡っています。やっぱり上から見てもワクワクします((o(´∀`)o))

【写】天方城⑪

主郭の外周の外側には展望台もあります。設置場所は遺構を破壊しないよう配慮したということでしょうか。安易は白亜の楼閣ではなく、木造っぽいデザインが好感を持てます。邪魔な木を切れば、わざわざ展望台を造らずに済むとは思いますが・・・邪魔な木が多過ぎるのでしょうか?w

【写】天方城⑫

さすがはお城が築かれるだけの立地です。眺めはとても良いです合格

【写】天方城⑬

ぷはぁ、っと城跡を堪能して帰る間際に、もう1つ城址碑を見つけました。場所は忘れちゃいましたが、多分駐車場の外だったと思います。この文字を書いた人の名前が脇にありますが・・・苗字からすると、城主様のご子孫でしょうか?城跡ではたまにこういうのを見かけます^^


◆歴史◆

応永年間 (1394~1427年の間)、山内道美が天方本城を築きました。

山内氏は飯田荘の地頭です。天方城にはその一族が入り、通秀の代から天方姓を名乗るようになりました。天方本城は天方城(天方新城)の北にありました。正確な位置はググってもわかりませんが、天方小学校の北西の山だそうです。天方氏が今川氏に仕えたのが1494年で、天方通季の代だそうです。

天方通興により天方城(天方新城)が築かれました。

天方通興は天方通季の孫です。本格的な戦国時代に突入し、より堅固な城が必要になったのだとか。1596年に79歳で没しているので、1517年生まれですね。ということで、築城時期は1530~50年頃でしょうか。

1569年、天方通興が徳川家康に降伏しました。

この年の2月に徳川家康が掛川城を降し、天方氏の主・今川氏真は相模へ退去していました。その後も天方通興は徳川軍に抵抗を続けたため、城を包囲して激しい攻防を繰り広げました。最終的には天方通興は降伏し、徳川家康の家臣となりました。

1570年、再び徳川軍に包囲されました。

この頃は武田信玄による調略が激しくなり、寝返る者が少なくありませんでした。天方通興は徳川家康の命令も無いのに兵を集めたとして、再び徳川軍に包囲されました。この時は戦いにはならず、天方通興は二心の無い事を誓って開城しました。

1572年、武田軍の城となりました。

武田信玄が4万の大軍で遠江に侵攻したため、天方通興は戦を避けて徳川家康の元に逃れました。天方城には武田信玄の家臣・久野弾正が入りました。

1573年、徳川軍が奪還しました。

武田信玄が没した後、徳川家康は武田軍に奪われた城の奪還に動きました。天方城もこの時に奪還され、天方通興が再び城に入りました。翌年に再び徳川軍が天方城を攻め降しており、武田軍との間で争奪戦が繰り返されたようです。

1574年、徳川家康が逃げ込んで来ました。

武田勝頼に従う天野氏の犬居城攻めに敗れ、徳川家康が天方城に退却しました。徳川家康がコテンパンに敗れたのは、三方ヶ原とこの戦の二度だったとされます。

1579年、嫡男・天方通綱が出奔しました。

徳川家康の嫡男・信康が切腹することとなり、服部半蔵とともに天方通綱が介錯を務めました。服部半蔵が泣いて介錯出来ない状態だったため、天方通綱が介錯しました。しかし、主の首を刎ねた自責の念に耐えられず、天方通綱は高野山へ出奔。天方通興は長女の子・青山通直を養子に迎え、後継者としました。

1596年、天方通興が没し、廃城となりました。

徳川家康が1590年に関東へ移っていますが、従わなかったのでしょうか・・・?この辺の動きは?ですが、天方通興の死をもって廃城になったようです。

その後の天方氏ですが・・・天方通興の跡を継いだ天方通直は、2250石の旗本として徳川家康に仕えました。その家系は4代後から青山姓を名乗ったそうです。

一方、出奔した天方通綱ですが、後に越前松平家に召し出されてその家臣となりました。こちらは越前天方氏となり、その後も家名は続いたそうです。城址碑の文字を書いたのはこちらの家系の方でしょうか?


所在地:静岡県周智郡森町向天方(城ヶ平公園)

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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