2016/07/18
匂坂城/静岡県磐田市
匂坂城は、道端に城址碑が残っているだけです。訪問日は2014年9月13日です。

匂坂城は、天竜川東岸の川岸段丘上にありました。地図で見ると、東側に等高線が密集している所があります。この段丘は南北に長く、そういう意味ではバリバリの平城でした。

上の写真の反対側から撮りました。どちらから見ても、見えるのは畑ばかり。かつては堀跡があったらしいのですが、完全に埋められ遺構はありません。

城址碑です。上の2枚の写真にも写っていますが、木陰に隠れており目立ちません。城址碑には、お城の歴史が刻まれています。今は平和な田園風景が広がりますが、昔は戦で大変だったようです。ツルピカなので、撮るのにちょっと苦労しました

◆歴史◆
1532年、匂坂長能により築かれました。
匂坂氏は平安時代からこの地で暮らしていたようです。それまでは社山城に詰め、ここには館がありました。その社山城の城番を菅沼氏と交代し、あらためて本領に城を築きました。
匂坂長能は今川家一筋の猛将で、三河各地で功を挙げては領地を加増されました。しかし1560年以降、三河は徳川家康に攻め取られてしまいます。今川氏真は、ニクイことにその替わりの領地を遠江国内で与えています。暗愚だと称される今川氏真ですが、忠実な家臣にはそれなりに報いたようです。
1568年、匂坂吉政は徳川家康の家臣となりました。
徳川家康が今川氏真の籠る掛川城を包囲していた時の事です。北からは武田信玄の軍勢が迫り、匂坂一族は武田信玄に仕えることで決したようです。そのため、匂坂吉政は秋山信友の陣に挨拶に出向いたのですが・・・兄の子・匂坂政祐が、自分が嫡流と主張したため殺害。匂坂吉政は三男でしたが家督を継いでおり、匂坂一族の当主でした。これにより匂坂吉政は急遽方針を転換し、徳川家康に鞍替えしました。
こんな事件があると、家中が真っ二つに割れてしまいそうですが、大丈夫だったようです。2年後の姉川の戦で、三兄弟で力を合わせて「北国の怪人」真柄直隆を討つ大手柄を立てました。相手がどれだけ凄い武将なんだろう?ってググってみました。真柄直隆は身長は2m近い大男で、刃渡り2m近い大刀を振り回す猛将でした。ネットで彼の大刀を見ましたが、あんな物振り回す武将が実在したのに驚きました。
1571年、武田軍に占領されました。
遠江に侵攻した武田軍に攻め落とされました。匂坂城には穴山梅雪が入り、徳川家康の東西の連絡を分断しました。武田軍はこれにより二俣城攻めに専念出来、陥落させました。
匂坂城の歴史でわかっているのはここまでです。武田軍はその後、三方ヶ原で徳川軍を破りますが、三河の野田城に留まった後に撤退。そして、武田信玄が世を去りました。徳川家康は武田軍に奪われた城を取り戻しているので、匂坂城も奪還したと思われます。
匂坂吉政は、自分が殺した匂坂政祐の子に鉄砲で撃ち殺されてしまいましたが・・・江戸時代は徳川家の旗本として、東にあった匂坂代官所で存続しています。それが三兄弟のどの家系なのかまでは、わかりませんが

所在地:静岡県磐田市匂坂上
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