2016/07/17
二俣城/静岡県浜松市天竜区
二俣城は遠江を巡る攻防が繰り広げられたお城です。訪問日は2010年6月12日です。

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ココは本格的に城めぐりを始めた頃に訪ねました。当時は「わぁ!石垣スゴイ!」なんて感動したもんですが・・・こうして図を見ると、山城らしい遺構が沢山描かれています。時が経つと人間、欲深くなるんですねw

さすがはそこそこメジャーな城跡だけあって、登城路は綺麗に整備されています。その入口にある城址碑が、「さぁ、行くゾ!」という気分を盛り上げてくれます


今だったら「わぁ、○○




でも!やっぱり石垣の天守台、大好きです

◆歴史◆
築城年代、築城者とも不明です。
二俣は国人の二俣氏が支配していました。遠江は斯波氏と今川氏が支配権を巡って争っており、二俣氏は斯波氏寄りだったようです。1476年に今川義忠の侵攻を受けて降伏しましたが、その後何度か反今川の動きをします。1501年には斯波方の城として、斯波氏の援軍・小笠原貞朝が入城しています。しかし、争いは今川方に優位に推移し、1506年には今川一族の瀬名一秀が入りました。その後、二俣昌長が城主となりましたが、再度謀反の嫌疑がかかり蟄居処分となりました。
1514年、松井信薫が二俣に入りました。
代わって二俣に入ったのが、松井信薫でした。ただし、この頃の「二俣城」は現在の位置ではなく、ちょっと北の笹岡古城とされます。1528年に松井信薫が没すると、弟の松井宗信が城主となりました。
1560年、松井宗信が討死しました。
桶狭間の戦で、松井宗信は本陣の前備えを務めていました。桶狭間での織田軍の奇襲部隊と戦い、手勢200ともども討死しました。家督は兄・信薫の子・松井宗親が継ぎました。
1565年頃、松井宗恒が現在地に城を築いたとする説が有力です。
今川義元が討死した後、遠江は「遠州錯乱」の大混乱となりました。今川氏真が跡を継いだものの、武田信玄や松平家康に鞍替えする国人がかなりいました。曳馬城の飯尾連竜も松平家康に鞍替えする腹づもりでした。1562年に露見して、今川氏真に曳馬城を攻められるも撃退。飯尾連竜の無実を訴える起請文により、いったん和睦しました。しかし、1565年に今川氏真が飯尾連竜を駿府に招くと、その場で謀殺。飯尾連竜の姉妹を正室としていた松井宗親も疑われ、ともに殺されてしまいました。松井氏の家督は、松井宗親の父の弟の子・松井宗恒に引き継がれました。
遠江は武田信玄や松平家康により侵攻の危機が迫っていました。そのため、松井宗恒が当時は天竜川と二俣川に囲まれていた現在地に二俣城を築きました。
1569年、徳川家康に降伏しました。
今川氏真が徳川家康により滅ぼされ、松井宗恒は武田信玄に仕えました。しかし、すぐさま徳川家康の軍勢に城を囲まれ、松井宗恒は降伏しました。この時に二俣城に居た今川旧臣・鵜殿氏長や松井一族は徳川家康の家臣となりましたが・・・松井宗恒は武田信玄に従い、二俣を離れたようです。2千貫の所領を安堵されたとされますが、その後の消息は不明です。
1572年、武田勝頼に攻め落とされました。
二俣城は鵜殿氏長が城番となり、徳川譜代の家臣・中根正照が守将として入りました。しかし、今度は上洛を目指す武田信玄に攻められます。二俣城は要害の地にあり、簡単には落城しませんでした。寄せ手の武田勝頼は天竜川に筏を流し、水を汲むための櫓を破壊しました。これにより水の手を絶たれた城方は降伏し、中根正照らは浜松城へ移りました。しかし、その後の三方が原の戦で、中根正照は討死してしまいます。
1575年、徳川家康が奪還しました。
長篠の戦で武田軍が壊滅した翌月、徳川家康が二俣城を攻めました。城を守っていた依田信蕃は、徳川軍の猛攻を半年もの間耐え抜きました。しかし、武田勝頼からの撤退命令により、城兵の安全を条件に開城しました。城代には大久保忠世が就き、遠州北部の武田方となった国人を攻略する拠点となりました。
1579年、徳川信康が二俣城で自害しました。
徳川信康は徳川家康の嫡男で、織田信長の娘・徳姫を妻としていました。しかし、とても仲が悪かったようで・・・徳姫は父・織田信長に徳川信康の罪状を記した手紙を送りました。その手紙の内容は、徳川信康が武田勝頼と内通してるという不穏なもの。織田信長は手紙を届けた酒井忠次に釈明を求めたものの、すべて事実と返答。そのため、織田信長が徳川家康に、徳川信康を殺すよう命じました。・・・というのが、一般的に信じられているお話です。
徳川家康の正妻・築山殿は今川一族・関口氏の娘で、今川義元の養女でした。松平元康が岡崎で独立してしばらくの間、築山殿と嫡男・竹千代は駿府に残されていました。松平元康改め家康が三河の今川方の城を攻め、その人質と交換により岡崎に帰されています。しかし、せっかく奪還したものの、家康と築山殿はとても仲が悪かったようで・・・徳川家康が浜松へ移った後も、築山殿と竹千代は岡崎城に留まっていました。凋落著しい武田勝頼が岡崎城を味方にするメリットは、確かに大きいですが・・・徳姫の手紙は、徳川家康が書かせて織田信長に届けさせたという説もあります。織田信長と武田勝頼を利用して、家中の分裂を防ごうとしたのかもしれません。
そんなこんなで徳川信康は二俣城に幽閉され、1579年9月に自害しています。
1582年、二俣城の役割が無くなりました
3月に武田勝頼が滅ぼされ、信濃・甲斐は織田信長の領地となりました。直後の6月、今度は本能寺の変で織田信長が自害し、信濃・甲斐が混乱しました。この混乱に乗じて旧武田家臣が各地で蜂起し、織田家臣が撤退を余儀なくされました。織田家では跡目争いが始まり、信濃・甲斐どころではない状態に。そのため、徳川家康、北条氏政、上杉景勝らが信濃・甲斐の切り取り放題を演じました。その結果、徳川家康が信濃・甲斐の大部分を獲得。勢力境にあった二俣城は、他国からの防衛という役割が無くなりました。城代の大久保忠世も、信濃の小諸城に詰めて二俣城に居ないことが多くなったそうです。
1590年、堀尾宗光が総石垣の城に改修しました。
徳川家康が関東へ移ると、遠江には堀尾吉晴が移って来ました。二俣城にはその弟・堀尾宗光が入りました。堀尾宗光は、二俣城とすぐ近くの鳥羽山城を総石垣の城に改修。鳥羽山城を自らの居館とし、二俣城に天守を築くなどしました。
1600年、廃城となりました。
関ケ原の戦の後、堀尾吉晴が出雲へ移りました。その後は徳川家の直轄地(天領)となり、中泉に代官所が置かれました。二俣城はその後使用されず、鳥羽山城とともに廃城となりました。
所在地:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
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