2016/07/10
小長谷城/静岡県川根本町
小長谷城跡には立派な堀が沢山残っています


訪問日は2015年1月24日です。

拡大表示
まずは現地にある説明板に載っている図です。本丸から三の丸までが徳谷神社、北半分が潰されています。神社の周りに堀がいくつも描かれ、更に丸馬出しが3つ並んでいます。当時はそこがお城の出入口だったんでしょうね。

ということで、さっそくその神社です。古くからある格式の高い感じがします。・・・神社はよくわからないので、素人丸出しです


その社殿の裏側には、高さ3m程の土塁があります。最初に圧倒されたのはこの光景でした。

境内は社殿側から本丸・二の丸・三の丸と図では描かれています。しかし、その境界の堀は埋められて、段差だけが残っています。

しかし、そのまま鳥居から表に出てビックリ。道沿いにかなり大きな堀(5号堀)が残されていました。隣を走っている道と比べると、その巨大さがわかると思います。

鳥居の脇には、ちゃんと城址標柱もあります^^

で、本当にスゴイのはここからです。まずは社殿のすぐ裏に立派な堀(1号堀)があります。これでも来て良かったと思いましたが・・・

順番に2号堀

3号堀

4号堀です。3号と4号は三日月堀になっています。武田流の丸馬出し2連チャンです。ここが有名でないのは、地理的なものかもしれませんね。
◆歴史◆
小長谷氏の城でした。
築城年代は不明ですが、この土地の土豪・小長谷氏の城でした。小長谷氏の歴史は古そうで、地元の伝承では南北朝時代にまでさかのぼります。それは「矢水」の伝承で、鴾(土岐)山城守とは「仲の良い一族」と伝わっています。鴾山城守と美濃守護の土岐氏の関係は、今の所不明です。この鴾山城守は、観応の擾乱で足利直義に味方した人物です。そのため、1353年に足利尊氏が駿河守護・今川範氏に命じて討伐され、没落しました。この時、小長谷長門守もおそらく鴾山城守に味方したと思われますが・・・
戦国時代は今川氏・武田氏に仕えました。
小長谷氏は生き残り、今川氏に仕える道を選んだようです。その後、1568年に武田信玄が駿河を攻め、今川氏真を駿河から追放しました。これ以降、小長谷氏は武田信玄に従っています。小長谷城には武田家臣の三浦員久が在城し、武田流の改修を加えたと考えられます。
翌年、徳川家康が遠江を制圧すると、大井川を境に武田・徳川の争いが始まります。武田軍は奥三河や北遠地方に進出し、徳川家康を圧迫。1572年には浜松城脇を素通りした後、三方が原で徳川軍を破っています。
1582年、廃城になったと思われます。
武田勝頼が滅ぼされ、駿河は徳川家康の領地となりました。武田家に仕えていた小長谷長門守政房は帰農し、富士川の東へ移ったそうです。城は廃城となりましたが、誰が領主になったのでしょう?大井川左岸で駿河国なので、駿府城の代官支配になったのでしょうか。
1619年、徳谷天王が遷座しました。
徳谷天王が小長谷城跡に遷座しました。明治時代に徳谷神社と改称され、現在に至ります。
所在地:静岡県榛原郡川根本町東藤川(徳谷神社)
静岡県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント