2016/07/08
鶴ヶ城/静岡県浜松市天竜区
鶴ヶ城は、三河との国境スレスレの所にある山城でした。訪問日は2014年8月6日です。

鶴ヶ城へ行くには、愛知県から県境を越えて行きます。私も奥三河へ行く途中に立ち寄った感じです。国道151号から県道9号に入り、写真の斜め左に入って行く道が登城路です。小さくて見えないのですが、道の分岐の所に「←鶴ヶ城跡」の案内があります。

この道はそんなに長く走らないのですが、バイクが苦手な砂利道です。幅の狭い林道なので、クルマを停める所も無し。400m程なので、林道に入る前にどこかに停めておくのが良さそうです。

城跡の入口には、ちゃんと案内が出ていました。これなら迷わずに辿り着けそうです


林道から脇道に入る所は、こんな感じでかなり長い土橋になっています。さらにその先は、派手に削った切通しです。人の手入ってる♪感じがイイですね!

しばらくはまっすぐに平坦な道が続きます。

しかし、二度目の土橋を渡ると、一転して山道を登ります。

かなりいい感じの傾斜ですw

そんなに長くない?山道を登ると、あちこちに白い札が現れます。いよいよ城の中心部分に到達です!

戦国時代の山城ですから、竪堀、横堀に土橋と色々あります


そして辿り着いた主要部っぽい所が、「馬出曲輪」でした。主郭じゃない?なんて思いましたが・・・名前なんてどうでもイイ、かもヾ(*´∀`*)ノ

と、山中深くで山城を堪能した、真夏の早朝でした

◆歴史◆
1565年頃、鶴山大磯之丞が城主でした。
時期的には、徳川家康が三河を統一した頃です。この辺り一帯は奥山氏の支配地域で、今川氏真に仕えていました。徳川軍がいよいよこっちにも来るぞ!と、備えたものと思われます。城主は鶴山大磯之丞の名が伝わります。どのような人物なのかは?ですが、この城に入って名を改めたのかもしれません。
1568年、落城しました。
攻めて来たのは、すぐ西の別所城主・伊藤貞次です。徳川家康の家臣として攻めて来たようです。激しい攻防戦が繰り広げられ、城方が全滅する気配が濃厚となりました。鶴山大磯之丞は城兵の助命を条件に降伏し、切腹して果てました。
その頃の奥山氏の状況
鶴山大磯之丞の主家・奥山家は、どの大名に従うかで分裂状態でした。そんな中、次男・奥山定茂が兄・奥山貞益を攻め滅ぼしました。さらに、奥山定茂は2人の弟達も攻め滅ぼし、奥山家中を掌握しました。その奥山定茂は、武田信玄に仕える道を選びました。しかし、武田家が滅びると徳川家康に追われ、信濃へ逃れたと伝わります。
鶴ヶ城を攻め落とした伊藤貞次も、3年後に武田信玄に鞍替えしました。しかし、長篠の戦で武田軍が大敗すると、伊藤貞次は甲斐へ落ち延びました。
所在地:静岡県浜松市天竜区佐久間町浦川
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